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2006年2月21日 (火)

乙骨家の人々 1

乙骨耐軒、太郎乙の縁に連なる人々の交流誌「円交」五号から引用させて戴きます。

  乙骨家の人々 

           古山 巴  

 我が父乙骨半二は、明治九年、牛込横寺町で、乙骨太郎乙の次男として生まれました。幼時は相当ないたづらっ子だったらしく、とんぼ捕りや、隅田川の水練場での泳ぎ、魚釣りなどに明け暮れていたそうです。身の軽いスポーツマンで、野球が日本に紹介された頃から早速取り組み、ミットもグラブもない時代故、手の平が皮のようになった話を聞きました。後年テニスや玉突きもやり、運動神経が発達していたことは当人も自慢で、大塚辻(辶が正しい)町の家から日比谷の裁判所に通う時は市電で往復していたのですが、辻町の停留所まで行ったことはなく、電車通りに面していた我が家の前からいつも跳び乗り、跳びおり、でした。呑気な時代の話です。半二が学齢に達した頃は、学校制度もまだ確立されていなかったので、小学校に行く学齢で、いきなり今の中学校程度の開成学校に入れられ、大きな子供達と一緒に勉強させられたそうです。教科書も整っていないので、物理や化学も英語原書を与えられて、わけの判らぬ部分も多く混乱していたようです。その頃覚えた学術語で昆虫の学名を並べ、後年世界的の昆虫学者になった甥の江崎悌三を煙に巻いて喜んでいました。その後、築地の府立一中に入り、仙台の二高を経て一高に転入、帝大の仏法科を出て、裁判官の道を歩みました。後の駐英大使松平恒雄氏は二高で同級だったそうです。半二は外国語が得意だったので、外交官になるのが夢だったようですが、半二の幼少時には大層羽振りのよかった父太郎乙が官を辞してしまったので幼くして死んだ長男の代わりに一家を背負う事になった半二は外交官への道をあきらめて地味な裁判官を選んだそうです。当時の外交官は政府が貧乏であまり給料を呉れないので、家に財産があるか、大金持ちの細君でも貰わぬ限り、とてもやって行けなかったそうです。

 裁判官という職業柄、常に物を公平に見ることを心がけ、自分の挙措進退を厳格に規制していました。新聞の記事などではよく鬼検事という名を冠せられましたが、やさしい心も持った人でした。

 姉の江崎牧子は太郎乙の全盛時代に成人したので、至れり尽くせりの教養を身に付け、和歌は中島歌子女史に日本画は誰それに習い、学校は当時貴顕令嬢達の通った、お茶の水女学校に行くといった具合で袴に皮靴を履いて通学したそうです。しかし当時のこととて牛込からお茶の水まで歩いて通ったそうで、たまたま築地の一中まで通っていた半二と同行したこともあるようです。ある時、水道橋で何かの拍子におまきが風呂敷包みを取り落とし、本やお弁当が散乱し衆人環視の中で穴にも入りたい思いの所を半二はお姉さんの為に本はもとよりお弁当の中身まで、全部拾い集めて渡したので、「半二は冷たい人だと思っていたら、本当はとても親切な人なんだね」と感謝したという話です。

 大学を出てから検事としての振り出しの任地は横浜で、それから宇都宮、仙台と転勤しました。仙台に勤務中、上司で控訴院判事だった柳沢重固の世話で、同氏の姪である安東しゅんと明治四十年十二月に結婚しました。しゅん(呼び名はジュン。昔の習慣で、戸籍の届け出の際に濁点をつけなかったので)は山形県天童藩の武士安東氏の四女。御維新後貧乏な子沢山の武士の家の子弟は、当時、学資のかからない教育施設ばかりをねらったもので、長兄斌(サカリ)は陸軍大学、次兄良(リョウ)は海軍大学、長姉まさは産婆の学校、次姉よしは師範学校、その次の姉たまは女高師を出てそれぞれ自活しているというわけで、しゅんも、仙台の女子師範を卒業して釜石の高等小学校の教員をしていました。八人の子沢山の家で育って、貧乏の味はよく知っていようから、同じく貧乏で子沢山の乙骨の家の切り盛りは任せられると思って嫁に選んだというのが後年の半二の述懐です。

 仙台で祝言を挙げたのは柳沢の家です。当時山形で産科医に嫁ぎ自分は産婆をしていたしゅんの長姉まさはその祝言の席に連なったわけですが、後年当時を振り返って言った言葉は「半二さんは実に惚れぼれするような、りりしい美男子でしたが隣に坐ったじゅんちゃんは大層見劣りがしたんでしたっけ」。結婚後間もなく半二は函館に転勤となり、四十一年の十月に裁判所の官舎で長女である私が生れました。函館の港は別名巴港とも呼ばれていたのが私の名前の由来と聞いています。 

 又また東京へ転勤の命を受けた半二は、しゅんの産後の肥立ちを待って妻子を伴って東京の大塚の家に帰りました。

※この随想は長文であるため、数日にわけて打ち込みます。筆者の年代が山本健吉や石橋秀野と同世代であるため、写していて示唆されることが多いです。

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コメント

私は柳澤重固のひ孫にあたります。当時の判事の写真も残っています。もし親戚の方でしたらご連絡いただけますか。

柳澤様へ
ご訪問ありがとうございます。
この小冊子を私に下さった乙骨菊枝様つまり永井菊枝様は 去年夏に帰幽されたとのこと ご主人の永井友二郎先生は三鷹にいらっしゃいます
私は親戚ではありません
ただ君が代の歌がどうしてどういう縁によって 乙骨太郎乙のあたまの中に国歌としてひらめいたのかというのを 知りたい一心で 太郎乙一族の最長老だった菊枝様に手紙をお出ししまして 譲り受けたものでございました
うちこみをしてますうちに 気づかせて貰ったことがあります
それをことばにはできません
柳澤様はこの君が代うみのおやの一族の歴史の中にお名前が登場する恩義ある上司でいらっしゃる
その時代のお写真も保存しておられるとは 素晴らしいことでありますね
けれども 直系の孫娘だった菊枝様が亡くなられまして 実質 太郎乙の蹟を引き継ぐ家があるのだろうか それを私は存じあげないのです
ですから せっかくの有難いお申し出にもどう答えたらいいのかわかりません
お心ありがとうございました

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