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2006年2月 7日 (火)

乙骨耐軒とその子孫

先月、乙骨太郎乙の子孫のかたがお送りくださった資料から、いくつかご紹介したいと思います。資料提供者は明治史料館に太郎乙の八十賀漢聯句軸(当ブログ「乙骨太郎乙の精神世界1」所収)ほか沢山の史料を寄贈されている、東京在住の歌人・永井菊枝氏(88歳、太郎乙の実質的な長男である半二の娘)です。先日「江戸ッ子」で最後の部分だけを引用したのが気になってましたので、全文引用します。いまの時代に微妙にひびくものがあると思いました。

   「乙骨耐軒とその子孫」       

                      永井 菊枝

 乙骨氏の遠祖は信州諏訪郡乙事の出身(耐軒の号に乙事木樵とあるのは之に由来する)で徳川家康に認められ幕臣となる。その十一代目が彦四郎耐軒である。昌平黌の儒官・漢詩人として聞えたが、天保十四年、昌平黌の分校甲府徽典館(きてんかん)の初代学頭として友野霞舟と共に甲府に赴任、嘉永六年にも再度学頭に任ぜられている。今、山梨教育学部の門内「重新徽典館之碑」の面の中程に「乙骨寛副焉」の五文字を見つけ、又名勝昇仙峡に耐軒選「仙獄新道銘」なる磨崖碑を仰ぐとき、耐軒と甲府との御縁の深さを沁々と思う。

 耐軒の長子太郎乙は漢学・蘭学、後、箕作麟祥(みつくりりんしょう)より英学を学び、蛮書調所ー開成所教授を経て、維新後は徳川家の家学沼津兵学校の教授となる。明治五年、新政府は大蔵省翻訳局を立て、太郎乙を同局教頭に任じ欧米先進の文献の翻訳と子弟の英語教育に当らせた。太郎乙の妻継(つぎ)は杉田玄白の曾孫。その姉縫(ぬい)の夫富田鉄之助は勝海舟の愛弟子で、米国留学中岩倉使節団に引きぬかれ欧米巡察に従う。後、二代目日銀総裁や東京府知事を歴任した。耐軒の次男絅二は文久三年の遣仏使節団一行に随員として巴里に行っているが、同じ幕臣上田家に養子に入り、その一子が英文学者というよりは、訳詩集「海潮音」で有名な上田敏。敏の女婿嘉治隆一(朝日新聞論説委員)の「人物万華鏡」によれば、退官後の太郎乙は亡国の遺臣として遂に世に出る事なく専ら旧幕臣の子弟の教育や指導に一生を捧げ大正十一年に歿した。太郎乙の姉錦(きん)の一女多喜は太郎乙の養女として育ち、長岡藩出身の眼科医甲野棐(たすく・東大教授・明治天皇侍医)に嫁し、その孫に著名なヴィールス学者甲野礼作が居る。太郎乙自身の長女牧は明治の著名な歌塾中島歌子の萩の舎で樋口一葉や三宅花圃と同門で、一葉日記にもその名が登場する。太郎乙の二男半二、即ち筆者の父は、現代のロッキード事件にも比すべき大正年間の大疑獄シーメンス事件に検事として敏腕を揮った。三男の三郎は上野音楽学校(現芸大)教授として西洋音楽史を講じ、我国の洋楽普及啓発に尽し、又文部省唱歌「日の丸の旗」「鳩」「池の鯉」「浦島太郎」「汽車」等の作詞をしている。

 総じて太郎乙以下乙骨一族の学殖は和漢洋、特に当時としては洋学の方に広く深かったが、その生活感情は飄逸・洒脱・名利に恬淡、加えて酒飲みー之は「都下の溝渠の深浅を知る」(中野香亭の「香亭雅談」)と云われた耐軒の直伝であろうし、すべてに於て江戸ッ子的だった。

乙骨三郎作詞の童謡について初めて知り、たいそうおどろきました。「はと」は、あの有名な幼稚園から小学校へあがるときの「はとぽっぽ」だったからです。からだがふるえるようなおどろきです。「汽車」は「いまはやまなか、いまははま」という馴染みある歌、「浦島太郎」は誰でも知っていますけど、作詞者をしりませんでした。名利に恬淡だった乙骨耐軒や太郎乙を彷彿とさせるものがあります。(姫野)

※「甲府徽典館」で検索中、乙骨太郎乙新史料について書いておられる青木昇というかたのサイトを見つけました。おもしろいです。なぜなら西洋医療が入ってくる直前の精神科治療について触れてあるからです。アドレス書いておきます。

花畑出身の将軍家侍医青木春岱ーその15、青木昇

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Poplar/2244/a-shuntai15.html

(上記の筆者青木昇氏に引用許可をお願いしようとしたのですが、メールの宛先がどうしても分からず、勝手ではございますがこの文面にて事後承諾をお願いいたします。上記を読むことで太郎乙の精神世界が又少し開けます。なにしろまだぜんぜん足りないのです。青木氏の説明で、どのように太郎乙が紙を大切に使っていたか分かります。もっとも当時は誰もそうでしたでしょうが。推敲しすぎて本人にしか分からないという件、お察しいたします。)

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コメント

先日メールを差し上げた件です
御無用なら結構ですが(笑)
念のため、確認まで

多田乙山 様

こんにちは。
そうでしたか。すみません。メールをいただいたそうですが、なぜ気付かなかったのだろう。笑
削除済みを探そうとしてみても、削除済みボックスはからっぽでした。
もしお手数でなければ、もう一度コメントかメールいだだけるとさいわいです。よろしくおねがいします。

友野霞舟(とものかしゅう)検索でこちらへお見えです。

友野は漢詩人として有名な人で、榎本武揚の少年時代の漢詩の師匠でもあるようです。
武揚の漢詩は函館博物館にあるとのこと。↓

今朝、八重の桜に出てくる徳富蘇峰を調べていますと、経歴のなかで田口卯吉が出てきたので、懐かしくなってあちこちみていると、乙骨太郎乙にぶつかりました。感無量でした。
君が代の由来、だんだん声が大きくなりつつある。
これを書いた頃はまだ太郎乙の名前はメジャーではなく、小さな扱いでした。
今やすごいです。
ウィキペディアでも紹介が載っています☟。

おつこつたろうおつ、は、本当は「おつこつたろういつ」と読むみたいです。
ノベルス氏発明ダイナマイト解説
という英語論文の翻訳を太郎乙が1880年ごろやっており、その表記がたろういつ、です。
早稲田図書館蔵☟

ここも沢山読まれていました。

ノーベルの発明したダイナマイトについての研究論文を乙骨太郎乙が手書きしたものを、ネットで読める。
すごい時代になったなあ。

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