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2006年2月28日 (火)

乙骨家の人々 8

 若い時の過労も祟ったのか中年から胃かいようを患っていたしゅんは、戦争中、先祖発祥の地・長野県諏訪郡富士見村への疎開さわぎの疲れですっかり体力を消耗し富士見ではあまり働けず、寝たり起きたりの生活をするようになりました。胃の悪い者に適した、栄養価の高く消化のよいものなど手に入れることの困難な時期に身体は衰弱する一方でした。二十年八月、終戦の放送を聞いて、やっと戦争も終わったこれで享二も帰って来るんだねと、嫁の八重子と手をとり合って喜んだのも束の間、翌二十一年の一月に享二の戦病死の知らせが廻り廻って同じ北支へ出征していた江崎伊勢男氏から届きました。公報が来るまでは信じられぬと万一の生存を願っていたのに、やはり本当と知って、急に力を落とし、身体も気力も萎えて風邪がもとで忽ち肺炎となり、ほんの三日程の病臥で死去しました。五月二日のことです。富士見村では村外れの墓地の一隅で縁者が自分達の手で死者を火葬にする習慣でしたが、私達はそのような事は出来ず、諏訪の火葬場に頼みました。火葬場では、薪を持参すれば請け負うと言うので薪を工面し、当時半二と親しかった警察署長の力にすがって、折から上諏訪へ向かう一台の空のトラックに家に寄って貰って皆で亡き骸をトラックに乗せ、私達もその傍に乗って上諏訪に下りました。半二は無言のまま立ちつくしていました。折柄沿道には山桜が咲きこぼれていて、棺の上にハラハラと花びらが散りました。野辺の送りとはこういうものかと、来しかたの苦労の多かったしゅんの一生を思い浮かべて無量の感に浸りました。若い時は丈夫な人でしたから、実によく働き、進取の気象に富んでいて、新しいものでもどんどん消化しミシンを早くから習って、娘達の服は全部自分で縫っていましたし、編み物も上手でした。円交会を始め私達に沢山の楽しい思い出を残してくれました。

 半二は子供の時豊かに育った故かうまいものが好きで又目利きでもありました。昔はよく雉子や山鳥を撃った人が持って来てくれたものですが、羽をむしり、毛焼きをして料理するのは半二の役目でした。裁判の調書を読むのに飽きた時などに、ふらりと台所に出て来てオムレツを造ったりしました。松本楼あたりで聞き覚えてきたのでしょうか、おいしい牛のバラ肉のシチューの造り方などを我が家に導入したのも、天ぷらの揚げ方のコツを母に教えたのも父でした。昔は今の東京のように居ながらにして世界中の食べ物が買えるというような事はありませんでしたから、うまいものをうまく食べる事を教えられたのは本当に有り難いことだったと今でも思っています。戦争で段々食糧事情が窮屈になり、果ては鳥の餌のようなものを食べさせられたのは、ほんとに気の毒でした。

 大正十一年に父太郎乙を見送り、弟妹の世話も一通り責任を果たした半二は、劇務の続いた地方裁判所生活から控訴院へと移り、やや暇が出来たのと、何と言っても遠慮する人の居なくなった気易さから、次第に晩酌の量をふやして行きました。

 人生五十年を区切りにもっと気ままな人生を送りたくなったのでしょうか、気づまりな宮仕えをやめて、大審院検事になったところで、長年の検事生活から弁護士生活へと移り、虎ノ門ビルの一室に乙骨法律事務所の看板をかかげました。検事時代に取り扱った大きな事件として有名なシーメンス事件や、東京市の板舟疑獄事件などがあるそうですが、手元に資料がないので詳しい事は判りません。三郎叔父と違って、ものを書き残す事の嫌いな父でしたから、少しも裁判に関する資料などを残してくれませんでした。

 検事時代、特に地方裁判所時代は、事件が起きれば、時には現場検証に駆け付けなければなりませんので、自分の所在を常にはっきりさせていましたし、交番の巡査が来て何事か報告、すぐ出掛ける、というようなこともありましたから、暗やみでも支度が出来るように自分の着るものは一定のところに必ず置く、というような事を実にキチンとやった人でした。公私の区別も厳しくけじめを付ける人でした。一挙手、一投足にも心を配っていたような地味な検事時代とは逆に、弁護士事務所の部屋には洋酒の瓶を並べるような有様。検事時代に売れた名で弁護の依頼は引きも切らず、というわけで収入も一挙にふくらみました。酒はいくらでも呑む、金は入る、という生活は悪魔のしのび入る隙を造り、ただの大酒呑から酒乱の様相を帯びたものになり、性格も変わって、酒が入っていなければひどく不機嫌な毎日、というようになって来ました。

※松本楼http://www.matsumotoro.co.jp/

※松本楼が出て来ました。「石橋秀野ノート」にも書いた名前だったので懐かしかった。秀野の妹の恒子がここで漫画家の清水昆と結婚式を挙げるのです。たしか昭和16年2月でした。秀野のものがたりでは、関東大震災のころに13,4歳ですが奈良から東京へ移り、西村伊作の文化学院に転入学し、そこで高浜虚子に俳句の骨法を学びます。実際その時代を生きてこられた方の御文章を読みますと、本筋以外のこまごましたことがよくわかって、雰囲気がつかめます。きのうの「ひやめし草履」もよかったですね。

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