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2006年2月24日 (金)

乙骨家の人々 4

 「乙骨家の人々」古山巴(太郎乙の孫、資料提供者永井菊枝氏の長姉)より引用しております。あと七回分ほどございますが、行間にひそむ雰囲気をすてがたく全文打ち込みを続けます。おつきあいください。

 昔は東京も狭く、親類や知人が牛込あたりに固まっていましたので、よく出掛けて行っては御馳走になったり四方山話をしたりするのが閑日月の送り方でした。中でも一番の栄光ともし楽しみともしていたのが、徳川御本家で一年に一度行われる東照宮様のお祭りに招待を受けて参列することでした。当主の十六代様が主催のお祭のあとは、千駄ヶ谷のお邸での園遊会です。十六代様家達(いえさと)公には、幼少の頃太郎乙が英語をお教えしたというので、先生として遇して下さるのをとても光栄に思っていたようです。いつもの村夫子もこの日ばかりは羽織袴に威儀を正し、どういうわけか半二の靴を借用して出掛けました。所がこの半二の靴が自分の足にはやや小さめできついので、沢山の折詰などの土産を頂いて帰って来た時に玄関で靴を脱がせるのがいつもしゅんの閉口する役目でした。玄関から自分の部屋に行くまでに、羽織、袴、帯、着物、じゅばんというように順々にぬいで行くのが習わしで、あとから一つ一つ片付けてあるくのもしゅんの役目。陽気な性質でしたから、晩年病床にある時でも冗談を言っては看護の人達を笑わせていました。おまき、お久、おとく、おろくなどを次々に若くして先立たせ、残された孫達をいとおしむ不幸に見舞われながらも、その頃としては長寿の八十才まで生きて、半二、三郎、五郎達の至れり尽せりの孝養を受けて幸な毎日でした。大正十一年七月に亡くなった時は、馬車を列ねた葬列で小石川の伝通院まで行き、盛大な葬儀が行われました。

 江崎まきは二人挽きの人力車で役所に通ったという太郎乙の娘として何不自由なく育ち、林学士江崎政忠氏に嫁して、恵一、孝夫、悌三、信五の四人の男子を生みました。はじめは多分東京に在住しておられたのでしょうが、政忠氏が大阪の鴻池銀行に行かれるようになるや、子供達の教育の為、伯父さんは今で言う単身赴任の形をとり、伯母さんは東京に住むという変則的な生活をする教育ママでした。といっても往年のこと、大阪に堂々たる家を構え、女中も置き伯母さんはちょいちょい大阪へ行くと言うような事でしたが、中々教育に関しても一家言のある人で、慈父厳母主義が理想的であると唱えて「女学雑誌」に説をのせるという具合でした。私の母などは悉く感心してその主義を見習いました。ところが我が家では厳父厳母主義になってしまって私達は閉口したものです。教育ママの息子達は、恵一は電気に詳しく、孝夫は文学好き、悌三は虫が好きと、前途の楽しみな優秀な兄弟だったのですが、まきが信五のごく小さい頃丹毒のため若くて病死されたのは残念なことでした。恵一も母親の死後間もなく結核のため若死、孝夫は演劇の研究に没頭して、小山内薫と共に築地小劇場の旗揚げに加わるべく奔走中同じく結核の為若死、悌三は子供の時の才能に益々磨きをかけ世界的な昆虫学者となりました。信五は目から鼻に抜けるような才子で、経済人として成功する人であったろうと思われたのが、これも惜しくも結核で若死しました。

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