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2006年2月25日 (土)

乙骨家の人々 5

 お久(小室ひさ。太郎乙の三女で、この随想の筆者には叔母に当る。姫野注)も私は覚えていませんが、朝鮮の東洋拓殖に勤める夫君と共に朝鮮在住中に病を得て帰京入院されたのは、大正という世になってからと思われます。大塚の家の隣に小さな長屋があり、チンチロの叔父・叔母が住んで居られて、学齢前の秀夫・正夫両君が預けられていたのを覚えています。けやきと椿の大木のあった裏庭でその頃珍しかった乳母車を秀夫が押していたので一緒に遊んだりしました。

 半二は地方裁判所づとめで多忙を極めていましたが、暇を縫ってはお久を見舞いましたが、病は極めて篤く、高熱と頭痛に悩む病人がうわごとで子守唄を歌い、赤児を寝かしつけるしぐさをしていたと家に帰ってから報告して涙をながしていました。まだ乳の欲しかったであろう恒夫はどこに預けられていたのでしょう。手当ての甲斐もなく三人の幼児を残して間もなく亡くなりました。結核性脳膜炎でした。きっとよい妻であり母だったのでしょう、小室龍之助はお久の亡くなったあと、しばしば半二を訪れて一緒に酒を飲みながら、お久のことばかり言って泣いていました。あまりの嘆きの深さに後添いでも持たせたら少しは気もまぎれるのではないかと太郎乙も心配して然るべき婦人を後添いに推薦したのですが、「お久とは較べものにならない」とて間もなく破談になりました。以来長いこと不自由な男手で三人の男の子達が育てられているのを見て半二もしゅんも可哀そうでならず、大塚の家に呼んでは慰めていたのが円交会の始まりです。三人の子達は実に仲がよくて、長兄秀さんの言を二人の弟達はお母さんの言いつけのようによく守って行動していたのは、今思い出しても涙ぐまれる程です。

 大正七年の十二月十八日には、吉田弥平氏の媒酌で、増田実とおろく(太郎乙の五女、姫野注)の結婚式が挙げられました。花婿は乙骨の親戚には只一人の海軍大尉で将来を渇望されるなかなかの秀才との事でした。末妹の良縁を喜んで半二夫婦はできるだけの援助を惜しまず、かんざしは白牡丹で、履き物は阿波屋で、傘は仙女香で、八端(はったん。布団用語。来客用座布団だと思います。姫野注)は甲府から取り寄せよう、帯は今川橋の伊勢丹がよかろう、と言った具合で婚礼の支度を整えました。三郎や五郎も、十三才で母に別れた素直な美人であった末妹の未来を祝福して、何くれとなく嫁入り支度を助けました。

 おとく(太郎乙四女)は第二女学校を出て、お茶の水の専攻科に入学して間もなく肺結核に冒され、療養中の身でしたが、「私はどうせ当分嫁には行けないだろうから、私の分も全部おろくちゃんに持たせてやってくれ」と言って、兄姉のあらん限りの祝福を受けて結婚式に臨んだのでした。十二月十八日はもう寒くて、おろくは四五日前から風邪気味で微熱もあったのですが、増田氏は近い内に軍艦に乗らなければならず、式を延ばすわけには行かぬとて、一寸無理ではあったのですが予定通り挙式して、途中京都見物をして佐世保に向かうという新婚の旅に出ました。奇麗に支度の出来た花嫁姿を感心して眺めた私達は、佐世保に着いて間もなく、おろくが高熱を発したという電報を受け取りました。その後何回かのウナ電(至急電報)のやりとりの結果、公務で忙しい夫君に代わってチンチロの叔父さんが入院や看病の指図を行う為、半二から全権を任せられて佐世保に出発しました。

 大正八年は全国的にスペイン風邪が猛威を揮った年で、悪性のそれにやられたおろくは、夫君の看護も空しく、結婚後ちょうど一ヶ月目の一月十八日に死去。葬儀万端を終えてチンチロ叔父が持ち帰られたのは小さな骨壺でした。幾日かを経てあんなに皆が心を込めて支度した花嫁道具や着物が形見として戻って来た時には家中で泣きました。雑司が谷の墓地に一人淋しく「増田ろくの墓」と木の墓標になった人をいとおしんで、その後何年かは毎年命日にお墓詣りに行きました。おとくは特に落胆して病も悪化したようでした。

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コメント

チンチロは私も気になって少し調べました。松毬の異称とかで、紋所にもあるそう。ほら、紋って植物が多いでしょ。でもそれが、どういう御家系なのかはてんでわかりません。まるで見当違いかも。だったらごめん。ところで、結核といえば、私の父方の祖母も戦前、結核で亡くなっています。実際幼い子(一番下の叔父など2,3歳)を残して逝ったので、他人事とも思えません。そんな時代があったなんて、今から思うと不思議ですが…。

チンチロって言葉を最初に見た時、差別用語の朝鮮人のことかとまず思った。当時はナイーブだから実にあっけらかんと言うでしょう。現に父とかロシアのお相撲さんが出てきたら今も「ろすけ」ですもんね。骨身にしみてるんですねえロシア憎しのおん念が。次に、太郎乙はどんな人とも分け隔てなく付き合ったと資料にあったので、チンチロはつぼふりのバクチ打ちかもと。長屋に住んで時間の融通が利き、情に篤いとなると、小説家的には頷けませんか。

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