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2006年2月28日 (火)

乙骨家の人々 9

 或る時、自転車で裁判所に出掛ける途中、追突事故に遭い、気を失って病院にかつぎ込まれるという事件が起こりました。間もなく意識は回復しましたが、以来、頭が痛いという日が続き、苦痛を鎮める為に酒を呑む、という不合理な生活になりました。医者にも診て貰ったのですが、当時は脳外科なども余り発達していなかったのでしょう、今から考えれば、ムチ打ち症ではなかったのかと思われます。記憶力も不確かになって来たので、裁判に対する判断力に自信を失い、遂に弁護士を廃業してしまいました。虎ノ門から牛込の家を改築して自宅と事務所をここに移した時は大分借金をしていましたので、その借金を返す為に牛込の家を売って、下落合に家を新築して移り住みました。

 収入も恩給だけになって見れば、生活も地味になり、次第に酒の量も減って来たところへ戦争による物資不足で僅かな酒すら手に入り難くなって自然に酒は止めてしまいました。それが幸して病気は徐々に回復して来ましたが、再び職につく意欲もなくなって、散歩や読書に明け暮れる生活になりました。その間、弁護士の跡を継がせることを心ひそかに念じていた長男の死に遭うという異常事態が起こりましたが、半二もしゅんもまだそれ程年をとっていませんでしたので、どうにかその危機は乗り越えました。

 次女の婿の病死、次男の結婚・出征、三女の結婚など、様々な事を送り迎えて戦争時代を過ごしましたが、遂に、戦況の悪化から、老人・子供は東京から田舎へ疎開するようにと命ぜられました。

 疎開先で妻を失った半二は知人に貸してあった下落合の家の一間にやっと末娘花と共に戻って来ました。運命を甘受した半二は実に我慢強く不自由な生活に耐えていました。当時重病の床にあった夫綾夫の看病に手を離せぬ為、私はめったに父を見舞う事が出来ませんでしたが、或る訪れた時机の上にたった一つ置かれたふかしたさつま芋を前に憮然とした表情で坐って居た父の姿を忘れる事ができません。恩給も無きに等しい状態の昭和二十二年の終わり頃の事です。  

 二十三年の二月に二階から降りた階段の下にうづくまって倒れた半二を急いで借家人に明けて貰った階下の部屋に寝かせ、婿の永井友二郎医の診察を受けさせましたが、病状は重く、胃癌との事でした。少し前から食事が通り難かったとか。恐らく死の間近い事を予知してじっと時の来るのを待って居たのでしょう。貧血で倒れたのかも知れません。意識は最後まで確かで、「血を吐くことがあるかもしれないから、皆あわてない様に」とか、「時に取り乱す事があるかも知れないが許してくれ」とか、「今は薬も貴重な時代だから、若くて将来のある人の為に使ってくれ。私の為なら何の注射もいらない」ときっぱり断り、冷静に死を迎えたのは二月九日のことでした。私は綾夫の看病の為に父の死をみとる事が出来なかったのは心残りでした。経済的に苦しい事情であろう事を察して、「これでお葬式をしなさい」と親切にも五郎叔父が渡して下さったお金で、無事葬式を済ませることが出来ました。子供や孫たちが火葬場まで行きました。

 思い出す人々はいずれも、せい一杯真面目に人生を生きた、よい人達ばかりでした。

※最終段に登場する半二を看取った永井友二郎医師とは、当資料「円交」五号の提供者である東京在・永井菊枝氏(半二の三女)のご主人にあたります。乙骨太郎乙には四男五女(長男は早世)、跡継ぎの半二には二男四女(長男は戦病死)があります。

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乙骨家の人々 8

 若い時の過労も祟ったのか中年から胃かいようを患っていたしゅんは、戦争中、先祖発祥の地・長野県諏訪郡富士見村への疎開さわぎの疲れですっかり体力を消耗し富士見ではあまり働けず、寝たり起きたりの生活をするようになりました。胃の悪い者に適した、栄養価の高く消化のよいものなど手に入れることの困難な時期に身体は衰弱する一方でした。二十年八月、終戦の放送を聞いて、やっと戦争も終わったこれで享二も帰って来るんだねと、嫁の八重子と手をとり合って喜んだのも束の間、翌二十一年の一月に享二の戦病死の知らせが廻り廻って同じ北支へ出征していた江崎伊勢男氏から届きました。公報が来るまでは信じられぬと万一の生存を願っていたのに、やはり本当と知って、急に力を落とし、身体も気力も萎えて風邪がもとで忽ち肺炎となり、ほんの三日程の病臥で死去しました。五月二日のことです。富士見村では村外れの墓地の一隅で縁者が自分達の手で死者を火葬にする習慣でしたが、私達はそのような事は出来ず、諏訪の火葬場に頼みました。火葬場では、薪を持参すれば請け負うと言うので薪を工面し、当時半二と親しかった警察署長の力にすがって、折から上諏訪へ向かう一台の空のトラックに家に寄って貰って皆で亡き骸をトラックに乗せ、私達もその傍に乗って上諏訪に下りました。半二は無言のまま立ちつくしていました。折柄沿道には山桜が咲きこぼれていて、棺の上にハラハラと花びらが散りました。野辺の送りとはこういうものかと、来しかたの苦労の多かったしゅんの一生を思い浮かべて無量の感に浸りました。若い時は丈夫な人でしたから、実によく働き、進取の気象に富んでいて、新しいものでもどんどん消化しミシンを早くから習って、娘達の服は全部自分で縫っていましたし、編み物も上手でした。円交会を始め私達に沢山の楽しい思い出を残してくれました。

 半二は子供の時豊かに育った故かうまいものが好きで又目利きでもありました。昔はよく雉子や山鳥を撃った人が持って来てくれたものですが、羽をむしり、毛焼きをして料理するのは半二の役目でした。裁判の調書を読むのに飽きた時などに、ふらりと台所に出て来てオムレツを造ったりしました。松本楼あたりで聞き覚えてきたのでしょうか、おいしい牛のバラ肉のシチューの造り方などを我が家に導入したのも、天ぷらの揚げ方のコツを母に教えたのも父でした。昔は今の東京のように居ながらにして世界中の食べ物が買えるというような事はありませんでしたから、うまいものをうまく食べる事を教えられたのは本当に有り難いことだったと今でも思っています。戦争で段々食糧事情が窮屈になり、果ては鳥の餌のようなものを食べさせられたのは、ほんとに気の毒でした。

 大正十一年に父太郎乙を見送り、弟妹の世話も一通り責任を果たした半二は、劇務の続いた地方裁判所生活から控訴院へと移り、やや暇が出来たのと、何と言っても遠慮する人の居なくなった気易さから、次第に晩酌の量をふやして行きました。

 人生五十年を区切りにもっと気ままな人生を送りたくなったのでしょうか、気づまりな宮仕えをやめて、大審院検事になったところで、長年の検事生活から弁護士生活へと移り、虎ノ門ビルの一室に乙骨法律事務所の看板をかかげました。検事時代に取り扱った大きな事件として有名なシーメンス事件や、東京市の板舟疑獄事件などがあるそうですが、手元に資料がないので詳しい事は判りません。三郎叔父と違って、ものを書き残す事の嫌いな父でしたから、少しも裁判に関する資料などを残してくれませんでした。

 検事時代、特に地方裁判所時代は、事件が起きれば、時には現場検証に駆け付けなければなりませんので、自分の所在を常にはっきりさせていましたし、交番の巡査が来て何事か報告、すぐ出掛ける、というようなこともありましたから、暗やみでも支度が出来るように自分の着るものは一定のところに必ず置く、というような事を実にキチンとやった人でした。公私の区別も厳しくけじめを付ける人でした。一挙手、一投足にも心を配っていたような地味な検事時代とは逆に、弁護士事務所の部屋には洋酒の瓶を並べるような有様。検事時代に売れた名で弁護の依頼は引きも切らず、というわけで収入も一挙にふくらみました。酒はいくらでも呑む、金は入る、という生活は悪魔のしのび入る隙を造り、ただの大酒呑から酒乱の様相を帯びたものになり、性格も変わって、酒が入っていなければひどく不機嫌な毎日、というようになって来ました。

※松本楼http://www.matsumotoro.co.jp/

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2006年2月27日 (月)

二月の句

 あるじ顔してひよどりが梅を見る  益田 清

 光悦忌三条木屋町ピアノバー   原 しょう子

 川が曲れば国道曲る芽麦村    足立 雅泉

 雪山に春の夕焼滝をなす      飯田 龍太

 春雷や牡丹の蕾まつ蒼に      川端 茅舎

 

  俳誌「樹」三月号課題句「薬」    太田 一明 選

特選  

  薬石を費やし春の化石かな     鍬塚 聰子 

  薬袋に仕舞ふ真冬の星一顆     姫野 恭子

  薬石の効なく逝けり雪だるま     堀井 芙佐子

佳作

  薬指染めて寒紅引き終ゆる    井上 ちかえ

  風邪の子の好きな薔薇色水薬    依田 しず子

  百薬の長(おさ)引き連れし雪見かな  小森 清次

  薬袋を冬夕焼に見せている     竹原 とき江  

  丸薬の家出しており冬廊下     古永 房代

  薬の字のきらめく店舗年の暮    木村 賢慈

  薬一錠いつもポケットにある寒さ   佐藤 綾子

  枯れ残る情念もあり薬師草    林 照代

  初荷とて世間話と置き薬      山下 整子

選者吟  

  春の野といふ良薬を踏みしめる  太田 一明

主宰吟  

  風眩し薬罐に朝の水満たし   瀧 春樹 

 

※飯田龍太と川端茅舎の句は、中学一年生に歳時記を与え好きな春の句を選句させた結果です。「おおお!」とおもった。

川端茅舎は日本画家川端龍子の異母弟です。この句はすごいけどずいぶん派手で若いなあとも思うのは、自分が年をとったからですね。笑

乙骨家の人々 7

 関東大震災では大塚の家は焼けませんでしたが、朝鮮人の虐殺事件などがあり、半二は連日横浜まで出張するなど多忙を極めました。その九月十二日には古山倭文(しず)が小林正紹と東京会館で結婚式を挙げる事に決まっていました。三越に注文してあった振袖も八月三十日に届いたその翌日の災害です。この年の始めから古山おさだは病気になり、とても台北から上京して娘の結婚の為の世話をする事など無理だから、万事半二夫婦に頼むと言うことで、五月の見合いから九月の結婚式まで、倭文は乙骨半二の家に居て、色々準備をしていました。富田義男夫妻の媒酌でしたから、上流階級に属する小とよ夫人のお指図で、当時出来たばかりの遠藤波津子女史の巴里院と言う美容院なるもので化粧や着付けをして貰うとか、東京会館では西洋風の披露宴であるから落ち度のないように食事の作法を学ぶ為に試食に行くとか、当時の私達にとっては驚天動地の事どもで、テンヤワンヤの準備をしていました。そこへ地震で東京会館や巴里院は焼けるわ、世の中は殺気立っているわで結婚式どころではないのですが、夏の振袖を作ってしまったから冬に入ってはまずいというので、九月ぎりぎりの三十日に挙式という事になりました。台北では地震の報を聞いて、栄三郎・おさだは、もう倭文はかたわにでもなってしまったのではないかと夜も寝られず心配したという事です。巴里院も焼けたので、昔ながらの近所の髪結いに来て貰って着付けを済ませ、迎えのハイヤーに半二夫婦と倭文が乗って中野の小林家に行きました。花嫁衣裳など着ていては殺気立った人々に何をされるか判らないとて、窓のブラインドをすっかり下ろしての花嫁行、小林に着いた時は倭文は気持が悪くなったという次第でした。

 ともかく無事に送り届けて親代わりの役目を果たし半二夫婦はほっとしたわけでした。預かったお金で事を運ぶのですから、ちり紙の果てまで明細に書き出して古山へ報告した、しゅんの気苦労も大変だった事と思います。娘の花嫁すがたも見ず、初孫文子の誕生も待たずに、翌年(大正十三年)の二月二十九日、おさだも、まだ母の手を必要とした下の三人の娘に心を残して結核で亡くなりました。植民地の上っ面のみ派手な交際を嫌って、東京に帰りたいとよく言って居られた望みも果たせぬまま、遠い台北の地での最後でした。頭のよい毒舌家というのが私の印象でした。

 何といっても乙骨の本家ということで、太郎乙の家、引き続いて半二の家は人の出入りの多い家でした。盆暮の挨拶に見える方も多く、外山正一未亡人や上田敏未亡人の優雅な姿に接する事もできました。上田のお悦さんの日本語の素晴しさ、お召物の好みの渋い上品さ、忘れ得ぬものです。吹田こう大叔母はよく愚痴を交えながらおしゃべりするせっかちなお婆さん。派手なのは富田のお縫大伯母(おつぎお祖母さんの姉。日銀総裁や東京府知事をした鉄之助夫人。杉田玄白の曾孫のうち長女に当たる。)いつも小間使をお供に母やお千代叔母、私達子供にまでの贈り物の浴衣などを何反も積んで御入来、お花見の話、お芝居の話など一しきり陽気におしゃべりしての御帰還。甲野のお恭さんや上田の瑠璃ちゃん(瑠璃は上田敏の一人娘。姫野注)がお嫁に行く前には奇麗に着飾って、太郎乙お祖父さんの所に挨拶に見えましたが、虎ノ門の女学館一の美人ということで、後に八幡製鉄の社長になられた渡辺義助夫人となったお恭さんの高島田振袖姿は子供心にも惚れぼれと見とれる位、美しいものでした。

 吹田順助、小室龍之助は、半二といい勝負の酒呑みで、いつ果てるとも知れぬ酒宴が続いて子供達は大恐慌でした。

 富田義男(太郎乙の妻の姉・縫の子)は生真面目な酒を呑まぬ方で、若い時は定職を持たず、父鉄之助の遺産を継いで、夏は軽井沢に冬は熱海に避暑・避寒、家には数名の召使がいて、いつも食客を置いているといった呑気な生活。併し御当人はそのような上流生活に飽き足らぬ面もあったようで、よく半二の所へ人生相談に見えました。色々な事に凝ったり、事業を始めたりするのですが、何と言ってもお坊ちゃん育ち、人にだまされたりする事が多く、大邸宅を次々に手離され、最後は老人ホームの一室で亡くなられたのは、敗戦後間もなくの事でした。優秀だった一人息子も海軍に取られて戦死、昔を知る者には本当に痛ましいことでした。

2006年2月26日 (日)

農耕と園藝 3月号

 京都在住のルポライター菊池昌治氏から「農耕と園藝」三月号をいただいた。菊池氏の紀行文が好きな私は、あんな上等の俳句みたいな文章が書けたらなあといつも思っている。自分の感情をいっさい交えず、淡々と風物に語らせる手法。やってみれば、これがとにかく至難のわざであることに気づく。まず、細かなことまで物事を知っていなければならない。足で調べなければならない。どんなにもっともらしく文面をつくろっても、地理的なことや風土がうむ空気は取り繕えないのである。嘘の通用しない世界で体を張って文章を書いてこられた今時めずらしい「文士」という言葉が似合う物書きである。いわば発散を拒み、辛抱に辛抱を重ねた禁欲がもたらした恩寵のような文章。何度か電話でお話をしたことがある。東北訛りの残るやさしい声だった。山形出身で京都の大学へすすみ、それからはずっと京都在住でいらっしゃるという。いつかこの句について聞いてみなきゃとずっと思っている句がある。

 下京や雪積む上の夜の雨  凡兆

 知られているように芭蕉が上五を一直した句だが、この句は果たしてどんな心情を詠んだものなのか、私はどうもいまいちわからないのです。ある本には「下京という下町の風情と、雪に降る雨が暖かく呼応し、こころなごむ句になっている」みたいなことが書いてあり、またある本には「京都とは差別感情の烈しい土地で、なかでも上京と下京ではその様相は一変する。歴史的とさえいえる差別だ。であるから、この雪に降る雨は、わびしい冷たい情け容赦のない雨であり、下京で生きる人々の真情と合致するものだ」とあるんです。こうもいってることが違うと、読むほうとしてはどっちを信じればいいのか迷います。よそものとして京都に入り京都に住み、なりわいとして京都の風物を人を丹念に取材しては文を紡がれている菊池氏に、じっくりと一度尋ねてみたいです。

 「農耕と園藝」3月号に、八女の苺あまおうの出荷風景が載っていました。二年前まで毎日のように軽トラで出荷していた稲富集荷場の写真も鬼のような厳しい検査をする美しい検査員たちもちゃんと掲載されてました。なつかしかった。

 菊池昌治氏はこの雑誌に「京野菜の周辺」という連載記事を書いておられます。(吉野慈治の名前です)。私の所属俳句誌「樹」の足立雅泉氏が「農耕と園藝」を読まれていて、本当に植物が好きな人たちには知られている本みたいです。よく読んでいた「家の光」をちょっと高級にしたような月刊誌です。950円。誠文堂新光社刊行。

※ ほっと一息写真  http://ikoku.cool.ne.jp/china/sisen1/huukei.htm

※ 「農耕と園藝」カマタスエコのブログ

このなかの、セリ料理が圧巻です!

http://bistro.exblog.jp/

乙骨家の人々 6

 五郎、おとく、おろくの三人は私の小さい頃は離れに住んでいてとても仲のよい兄妹でした。大学生だった五郎は私達によく巖谷小波のお伽噺を聞かせてくれました。又、子供達を相手に自分がゴンジイさんという役目になり、私達には畑を荒らす子兎という役を与えて庭中を追い掛け廻しました。少し長じてからは鈴木三重吉の編集する「赤い鳥」を買い与えて私達に文学への手引きをして下さいました。大正デモクラシーの思想は知らず知らずに私の心に染み込みました。彼ら三人の会話は子供心にも機知に富んだものと思えました。お礼を言う時はサンキューと言うことをその頃彼らのやりとりの中から覚えました。三人とも貧乏でしたから粗末なものを着ていましたし、五郎は学校に行くのにひやめし草履を履いて行ったのですが、彼らの部屋には何とはなしにハイカラな空気がただよっているのでした。当時、どうしてか叔母の持っていたコティの紙白粉の故だったかも知れません。おろく叔母が第二女学校の五年生の時私は竹早町の女子師範学校付属小学校に入ったので道が判らぬ私は暫くの間、叔母に連れられて通学しました。毎朝ギリギリの時間に家を出て大股で歩く叔母について、私は半分泣きべそで半分走りながら学校に行ったものでした。子供の足では三十分近くかかったでしょう。運動会の時には女学校の人達は和服に袴、たすきをかけて、エイエイと掛け声も勇ましく薙刀の試合をしました。おろく叔母の勇姿を感心して眺めたものです。

 おとくは学業半ばに病に倒れ読書や習字に明け暮れ療養に努めましたが、何の薬もなかった当時の事とて数え二十七でおろくの後を追うように亡くなりました。髪の毛のやや赤い細い声で話をする、文学好きの人でした。病気が移るといけないというので亡くなる少し前は私達は部屋に出入り禁止でした。「子供達によろしく。嫂さん長い間お世話になりました。」と言う最後の言葉も私達は母から聞きました。

 それにしても、家の中に二人の結核患者(註・太郎乙ととく)を抱えて小さい子供達を育てていた母しゅんの心遣いは並々ならぬものがあったと思われます。食器は全部別で厳重な熱湯消毒をしていましたし、離れの病人の部屋に入る時は割烹着を取り替えていました看護婦も雇っていましたから、気苦労もあったでしょうし、費用も大変だったと思われます。母自身は子供の時るいれきの手術をして首に傷跡がありましたから、結核に対する免疫があったわけで、それがあんな結核の巣のような所で二人の病人をみとるのによく耐えて健康でいられた原因でしょう。

 ともかく死者の多い家で寂円寺に行っては親鸞上人の「白骨の御文章」を聞く機会が多かったので人間のはかなさが身にしみて自分も若死するのが当然のような気になったものでした。

 太郎乙おじいさんも亡くなり淋しくなった大塚の家でしたが、薬研堀の甲野眼科医院に使用人達の監督として住み込んで居られたチンチロの叔父、叔母(兼三・たよ)が大正十二年九月の大震災で焼け出されて歩いて辿りつき、以後大塚の家に住むようになりました。叔父さんは間もなく焼け跡整理に行った時に鼻にばい菌が入ったのが因で十月に亡くなりました。兼三大叔父は誰があだ名をつけたのか昔からチンチロリンの叔父さん叔母さんと呼ばれていました。これは親戚中公認なので、電報などの場合名前はチロで通用しました。兼三はごく若い時に政府からイギリスに留学させられましたので、英語は本場仕込み、スタイルもよく中々のしゃれ者でした。頭もよい人なのに、どういうわけか一つの職が永続きせず、秋田の鉱山監督局、ハワイの移民監督官などを経てしばしば失職して、あちこちの食客となっていたり叔母さんの針仕事の内職で食べていたりというわけで、最後の職場が甲野眼科医院の使用人の取り締まりという役でした。二人とも子供のいない気楽さで何処へでも身軽に出て行くので、江崎のおまきが亡くなった、さあ叔父さん夫妻で監督に来て下さい、古山のおさだが亡くなった、さあ叔母さん来て下さい、と言った調子でピンチヒッターとして大変重宝な存在でした。どこに行ってもイギリス時代やハワイ時代に身に着いた西欧風の生活様式を失わず、震災で焼け出されて大塚の家に来た時も朝はトーストかオートミル、セロリとチーズを食べるなどと言う食生活で当時の私達の眼を丸くさせたものでした。貧乏でも生活を楽しむ事を知っていた、当時の日本人には珍しい存在でしたが、あまり呑気で行き当たりばったりの生活ぶりは太郎乙兄に心配も迷惑もかけたでしょう。叔父さんが亡くなってからたよ大叔母はずっと半二の食客となりましたが、大のチャップリンびいきで、よく浅草の映画館に出掛けて居ました。誘えば音楽会にでも気軽について行き、若い者とも話が合うので円交仲間にはモダンババァで通っていました。

2006年2月25日 (土)

乙骨家の人々 5

 お久(小室ひさ。太郎乙の三女で、この随想の筆者には叔母に当る。姫野注)も私は覚えていませんが、朝鮮の東洋拓殖に勤める夫君と共に朝鮮在住中に病を得て帰京入院されたのは、大正という世になってからと思われます。大塚の家の隣に小さな長屋があり、チンチロの叔父・叔母が住んで居られて、学齢前の秀夫・正夫両君が預けられていたのを覚えています。けやきと椿の大木のあった裏庭でその頃珍しかった乳母車を秀夫が押していたので一緒に遊んだりしました。

 半二は地方裁判所づとめで多忙を極めていましたが、暇を縫ってはお久を見舞いましたが、病は極めて篤く、高熱と頭痛に悩む病人がうわごとで子守唄を歌い、赤児を寝かしつけるしぐさをしていたと家に帰ってから報告して涙をながしていました。まだ乳の欲しかったであろう恒夫はどこに預けられていたのでしょう。手当ての甲斐もなく三人の幼児を残して間もなく亡くなりました。結核性脳膜炎でした。きっとよい妻であり母だったのでしょう、小室龍之助はお久の亡くなったあと、しばしば半二を訪れて一緒に酒を飲みながら、お久のことばかり言って泣いていました。あまりの嘆きの深さに後添いでも持たせたら少しは気もまぎれるのではないかと太郎乙も心配して然るべき婦人を後添いに推薦したのですが、「お久とは較べものにならない」とて間もなく破談になりました。以来長いこと不自由な男手で三人の男の子達が育てられているのを見て半二もしゅんも可哀そうでならず、大塚の家に呼んでは慰めていたのが円交会の始まりです。三人の子達は実に仲がよくて、長兄秀さんの言を二人の弟達はお母さんの言いつけのようによく守って行動していたのは、今思い出しても涙ぐまれる程です。

 大正七年の十二月十八日には、吉田弥平氏の媒酌で、増田実とおろく(太郎乙の五女、姫野注)の結婚式が挙げられました。花婿は乙骨の親戚には只一人の海軍大尉で将来を渇望されるなかなかの秀才との事でした。末妹の良縁を喜んで半二夫婦はできるだけの援助を惜しまず、かんざしは白牡丹で、履き物は阿波屋で、傘は仙女香で、八端(はったん。布団用語。来客用座布団だと思います。姫野注)は甲府から取り寄せよう、帯は今川橋の伊勢丹がよかろう、と言った具合で婚礼の支度を整えました。三郎や五郎も、十三才で母に別れた素直な美人であった末妹の未来を祝福して、何くれとなく嫁入り支度を助けました。

 おとく(太郎乙四女)は第二女学校を出て、お茶の水の専攻科に入学して間もなく肺結核に冒され、療養中の身でしたが、「私はどうせ当分嫁には行けないだろうから、私の分も全部おろくちゃんに持たせてやってくれ」と言って、兄姉のあらん限りの祝福を受けて結婚式に臨んだのでした。十二月十八日はもう寒くて、おろくは四五日前から風邪気味で微熱もあったのですが、増田氏は近い内に軍艦に乗らなければならず、式を延ばすわけには行かぬとて、一寸無理ではあったのですが予定通り挙式して、途中京都見物をして佐世保に向かうという新婚の旅に出ました。奇麗に支度の出来た花嫁姿を感心して眺めた私達は、佐世保に着いて間もなく、おろくが高熱を発したという電報を受け取りました。その後何回かのウナ電(至急電報)のやりとりの結果、公務で忙しい夫君に代わってチンチロの叔父さんが入院や看病の指図を行う為、半二から全権を任せられて佐世保に出発しました。

 大正八年は全国的にスペイン風邪が猛威を揮った年で、悪性のそれにやられたおろくは、夫君の看護も空しく、結婚後ちょうど一ヶ月目の一月十八日に死去。葬儀万端を終えてチンチロ叔父が持ち帰られたのは小さな骨壺でした。幾日かを経てあんなに皆が心を込めて支度した花嫁道具や着物が形見として戻って来た時には家中で泣きました。雑司が谷の墓地に一人淋しく「増田ろくの墓」と木の墓標になった人をいとおしんで、その後何年かは毎年命日にお墓詣りに行きました。おとくは特に落胆して病も悪化したようでした。

2006年2月24日 (金)

53kg

女子フィギュアスケートで金メダルをとった荒川静香選手、すばらしかったですね。

プロフィールを見ました。知りたかったのは、体重です。

身長166cmもあるなんて知らなかった。日本人のスケーターはみんな150センチ台の人ばかりというイメージがあったのです。そしたら今日身長を言ってるのを聞いて、へええと思った。確かに人と並んだら背が高いでした。

わたしは自分の背が高いのがずっとコンプレックスでした。167あります。5センチのヒールを履きますと、172です。夫の背が低いので、いつもぺたんこの靴ばかりはいていました。小さい時から、からだは細いのに、「ふとさー」といわれ続けたいたいけな少女の気持ちが、わかりますか。(笑)そうです、筑後の方言では、背が高いことも身体が太っている事も、みんなおんなじ「太い」というきわめてずさんな形容詞を使うのです。いつもちいさな胸をいためておりました。これはのっぽに育った女性なら、きっと分かり合える気持ちだと思います。

飯島晴子はわたしの大好きな俳人ですが、その人の句に、

  寒晴やあはれ舞妓の背の高き  晴子

という有名な句があります。よくは知りませんが、舞妓さんて身長制限があるんじゃないでしょうか。舞妓にしては背の高い妓がよく晴れた寒空のなか、ぽっくりをはいて佇っている。その姿にあわれを感じている晴子が、わたしは好きです。女心を分かってるなあと思います。いえ、じっさい女性でもこの句の味わいを分からない人もいるからです。さる批評家はこの句の舞妓が滑稽だと言っていた。全くわかってないです。

やっとさいきん、のっぽの自分を愛せるようになりました。なにより、便利です。それに少々太ったってあんまりわからないのがいいですね。

それにしても、53キロはすごい節制だろうと思います。自分を律する厳しさをみじんもかんじさせない優雅な滑りでしたが、その体重を知ってさすがに打たれました。おめでとうございます。日本にメダルをありがとう。

乙骨家の人々 4

 「乙骨家の人々」古山巴(太郎乙の孫、資料提供者永井菊枝氏の長姉)より引用しております。あと七回分ほどございますが、行間にひそむ雰囲気をすてがたく全文打ち込みを続けます。おつきあいください。

 昔は東京も狭く、親類や知人が牛込あたりに固まっていましたので、よく出掛けて行っては御馳走になったり四方山話をしたりするのが閑日月の送り方でした。中でも一番の栄光ともし楽しみともしていたのが、徳川御本家で一年に一度行われる東照宮様のお祭りに招待を受けて参列することでした。当主の十六代様が主催のお祭のあとは、千駄ヶ谷のお邸での園遊会です。十六代様家達(いえさと)公には、幼少の頃太郎乙が英語をお教えしたというので、先生として遇して下さるのをとても光栄に思っていたようです。いつもの村夫子もこの日ばかりは羽織袴に威儀を正し、どういうわけか半二の靴を借用して出掛けました。所がこの半二の靴が自分の足にはやや小さめできついので、沢山の折詰などの土産を頂いて帰って来た時に玄関で靴を脱がせるのがいつもしゅんの閉口する役目でした。玄関から自分の部屋に行くまでに、羽織、袴、帯、着物、じゅばんというように順々にぬいで行くのが習わしで、あとから一つ一つ片付けてあるくのもしゅんの役目。陽気な性質でしたから、晩年病床にある時でも冗談を言っては看護の人達を笑わせていました。おまき、お久、おとく、おろくなどを次々に若くして先立たせ、残された孫達をいとおしむ不幸に見舞われながらも、その頃としては長寿の八十才まで生きて、半二、三郎、五郎達の至れり尽せりの孝養を受けて幸な毎日でした。大正十一年七月に亡くなった時は、馬車を列ねた葬列で小石川の伝通院まで行き、盛大な葬儀が行われました。

 江崎まきは二人挽きの人力車で役所に通ったという太郎乙の娘として何不自由なく育ち、林学士江崎政忠氏に嫁して、恵一、孝夫、悌三、信五の四人の男子を生みました。はじめは多分東京に在住しておられたのでしょうが、政忠氏が大阪の鴻池銀行に行かれるようになるや、子供達の教育の為、伯父さんは今で言う単身赴任の形をとり、伯母さんは東京に住むという変則的な生活をする教育ママでした。といっても往年のこと、大阪に堂々たる家を構え、女中も置き伯母さんはちょいちょい大阪へ行くと言うような事でしたが、中々教育に関しても一家言のある人で、慈父厳母主義が理想的であると唱えて「女学雑誌」に説をのせるという具合でした。私の母などは悉く感心してその主義を見習いました。ところが我が家では厳父厳母主義になってしまって私達は閉口したものです。教育ママの息子達は、恵一は電気に詳しく、孝夫は文学好き、悌三は虫が好きと、前途の楽しみな優秀な兄弟だったのですが、まきが信五のごく小さい頃丹毒のため若くて病死されたのは残念なことでした。恵一も母親の死後間もなく結核のため若死、孝夫は演劇の研究に没頭して、小山内薫と共に築地小劇場の旗揚げに加わるべく奔走中同じく結核の為若死、悌三は子供の時の才能に益々磨きをかけ世界的な昆虫学者となりました。信五は目から鼻に抜けるような才子で、経済人として成功する人であったろうと思われたのが、これも惜しくも結核で若死しました。

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2006年2月23日 (木)

乙骨家の人々 3

(昨日からのつづきです。)

 祖母つぎは私が満二才になって間もなく亡くなりましたから記憶にないのですが、十人の子供を産んで貧乏と戦って来た人です。身体も弱っていたのでしょう、冬の寒い日に便所で倒れて心臓麻痺で亡くなったそうです。頭のよい無口な辛抱強い冷静な人だったと、半二や五郎は口を極めて母を礼賛しました。特に晩年の苦労の多かった母を知るだけに、五郎は女の人はいたわらなければならないと口ぐせのように言っていました。後年非常な愛妻家になる下地が、若い時に出来ていたものと思われます。或る時、石油ランプが倒れて火が燃え上がった時、おっかさんは少しも慌てず、傍らにあった火鉢をさかさにして灰をかぶせ、障子などに燃え移るのを防いだと半二は母の沈着振りを讃えました。元来は、幕末の蘭医・蘭学者として盛名を馳せた杉田成卿(玄白の孫)の次女で裕福に育った人ですが、貧乏御家人の乙骨家に嫁し、太郎乙が大蔵省翻訳局の教頭に迎えられた、いっときの全盛時代を除いては只ただ貧乏の中で十人の子供を育てる事に専心しました。貧しかったので、恐らく着物などもまともなものは殆ど持っていなかったのでしょう、着替えをして外出したのは止むを得ぬ法事の時一度きりだったと母の話です。その代わり十人の子は秀才揃いでした。六十二・三で死ぬのは早すぎました。もっと長生きをして成人した子供たちで楽をさせて上げたかったというのが子供たちの願いだったようです。

 辛抱強い人でしたから、保守的でもあったのでしょう、そのおつぎ祖母さんが亡くなってから、しゅんの台所改造が、家計のゆるす限り実行されて行きました。

 昔は戸主の権力は絶大でしたから戸主太郎乙の所には色々な人が沢山出入りしました。又太郎乙は磊落な人で世話好きな社交家でもありましたから、来客も多くありました。

 太郎乙は十七位で父耐軒を失い、残された母と弟妹を養って来たのですから、若い時は随分苦労もし、よく働いたものと思われます。耐軒の長女錦(きん)は娘一人を抱えて若くして不縁になりましたが、その母子を引取り、娘は自分の養女として育てました。それがおたきで太郎乙が甲野棐(たすく)に嫁がせました。上田家に養子に行った弟絅二も若死でしたので、息子敏(びん)を一時牛込の家に引き取ったこともあり、吹田鯛六に嫁した妹こうが後家になった時も牛込の家の門長屋に引き取って世話を見たり、末弟兼三がしばしば失職した時もよく世話をみました。又、田口卯吉、外山正一などの人達にも種々の援助を惜しまなかったようです。若い時のこうした面倒見のよさが、後に自分が職を止めて貧乏になり子沢山で困窮している時に恩返しの形で現れ、経済学者として成功した田口卯吉は上田敏や乙骨三郎の才を惜しんで自分の邸に住まわせ大学に通わせましたし、文部大臣になった外山正一も何くれとなく援助を惜しまなかったという事でした。

 甲野たきなども、後に明治天皇の侍医となり眼科病院長として成功した甲野棐夫人でしたから、おじいさんの為に何くれとなく贈り物をされていました。私の知る太郎乙おじいさんは白髪の村夫子然とした好好爺で、なりふりかまわぬ、まめに庭掃除をする人でした。落ち葉を掃きながら「もうあんしゅうや」とつぶやいていました。意味は不明ですが、そこから来たあだ名でしょう、五郎・おとく・おろく達は太郎乙の事を「もうあんさん」又は「まるしゃがさん」と呼んでいました。いつもゆるいふんどしをしていて、しゃがむと一もつが丸出しになるという事でこの名が付いたようです。「もうあんさん」はいつでも庭掃除をするか沢山の本に囲まれた八畳の部屋で詩作にふけったり、同好の士から送られて来る詩に朱筆を加えたりしていました。詩作にふけっている時は「おじいさんご飯ですよ」などと呼び掛けても返事がなく、苦吟している様子でした。

2006年2月22日 (水)

男たちの大和

初めて一人で映画をみました。今日はマイカルのレディズデイでしたので「博士の愛した数式」を見ようと思って、こどもの服を買うついでに佐賀の上峰サティへ行ったのです。でも気が変わって、見たのは「男たちの大和」でした。

「乙骨家の人々」入力途中ではございますが、どうしても感想を書いておきたく、一筆します。わたしは平成十五年に「石橋秀野ノート」という拙い本を出しました。四年がかりで書いた本です。当時わたしは苺農家の一員として働きながら、「張形としての俳句」をして、ぜんそくもちで入退院をくりかえす病弱な息子の母親でした。いま振り返ると、精神的にも肉体的にもぎりぎりのところでやっていたなと思います。だからかもしれません。ものすごいシンクロがたくさんありました。いちいち書くのも追いつかないほどの偶然の一致。

霊に呼ばれる、ということがあるのだろうと思います。よくわからないのですが、ガダルカナルで戦死した伯父に呼ばれているのか、秀野にか、急性薬物中毒死した弟にか、太郎乙にか誰にか、わかりません。でも、はっきり感じられるものがあります。呼ばれていることです。乙骨太郎乙に関しても、遺族のかた(永井菊枝氏)の話を伺ううち、えっと驚くようなシンクロがあり、張り巡らされた糸がみえてきます。それは縁の重なりです。

「男たちの大和」を見て、つながっていると感じました。戦前と切れていたものが、つながっていたのです。それは、なんだと思いますか。国家に殉じた男達の真心は生きている、という事実です。

散る桜のこる桜も散るさくら・・・映画の中で反町くんがつぶやく俳句です。死ぬもの生き残る者、そして生き残ったものの使命。ちょうど新撰組の土方歳三が死に場所を求めて函館に行き綺麗に散っていくとき、榎本武揚に「あんたは生きて未来をつくれ」という言葉を遺します。それを伝える伝令の少年が「男たちの大和」でも似た役回りで出ていて、いい味をだしていました。男では彼、女では寺島しのぶがやはりよかったです。寺島しのぶって美人じゃないのに、あの存在感はなんなのでしょう。

こういう映画がやっと出来たことを喜びたいです。

 昭和十八年  山本元帥戦死の報に

 薫風に膝たヾすさへ夢なれや  石橋秀野

乙骨家の人々 2

(昨日からのつづきです。) 

 貧乏を承知で嫁いだしゅんではありましたが、当時中々進歩的で、村井幻斎の「食道楽」という本などを読み、書中に描かれた大隈重信邸の近代的な台所の設備などに憧れを持ち、いつかは自分も合理的な台所を持ちたいと夢を描いていました。又、いくら貧乏とは言っても、末子に生まれたお蔭で、兄姉達が結婚の支度だけは分相応に整えて呉れ、特に長姉の肝入りで、布団だけは上等のふかふかのものを持たせてくれたそうです。裁判所の官舎で、女中も使っての新婚生活から大塚の家に来た時は驚いた事でしょう。老父母(太郎乙と継、このとき六十半ば。姫野注)と五郎、おとく、おろくの小姑のいる家に、赤ん坊を抱えてやって来た若夫婦は一体どこに寝ただろうと今でも不思議に思います。多分、廻り縁のあるお座敷と言われていた客間が三人の部屋になったのでしょう。自分達の布団がふかふかであとの一家の布団が煎餅布団だったのが気になってそれから毎年順々に皆の布団の綿を打ち直して奇麗にしていったと後年しゅんの語ったことでした。布団気狂いと私達が評した程、布団の手入れをまめにやった母でしたが、最初のショックが余程大きかったせいでしょう。暗い土間の内玄関のくぐりの戸を開けて入ると十畳敷き位の黒光のする板の間の台所。天井には引き窓、大きな銅壺付きのへっつい、一段下りて、坐って茶碗を洗う流し。流しは板ですから、いつも水を流すのでなめくじも出没しようというもの。そこで外の井戸から汲んで桶に貯めておいた水で腰をかがめて食器を洗うわけです。井戸はガラガラと綱を引く車井戸、照明は石油ランプです。行燈部屋というのが縁側の端にあって、昼間はランプを全部そこにしまいます。石油の煤でランプのガラスのほやが黒くなるので、そのほやを磨くのは日課です。冬の朝寒い時はへっついについている銅壺の水が湯になるので、それで顔を洗ったりしました。官舎の台所はどの位近代的になっていたかは知りませんが、しゅんを迎えた大塚の家はこのようなものでした。

2006年2月21日 (火)

乙骨家の人々 1

乙骨耐軒、太郎乙の縁に連なる人々の交流誌「円交」五号から引用させて戴きます。

  乙骨家の人々 

           古山 巴  

 我が父乙骨半二は、明治九年、牛込横寺町で、乙骨太郎乙の次男として生まれました。幼時は相当ないたづらっ子だったらしく、とんぼ捕りや、隅田川の水練場での泳ぎ、魚釣りなどに明け暮れていたそうです。身の軽いスポーツマンで、野球が日本に紹介された頃から早速取り組み、ミットもグラブもない時代故、手の平が皮のようになった話を聞きました。後年テニスや玉突きもやり、運動神経が発達していたことは当人も自慢で、大塚辻(辶が正しい)町の家から日比谷の裁判所に通う時は市電で往復していたのですが、辻町の停留所まで行ったことはなく、電車通りに面していた我が家の前からいつも跳び乗り、跳びおり、でした。呑気な時代の話です。半二が学齢に達した頃は、学校制度もまだ確立されていなかったので、小学校に行く学齢で、いきなり今の中学校程度の開成学校に入れられ、大きな子供達と一緒に勉強させられたそうです。教科書も整っていないので、物理や化学も英語原書を与えられて、わけの判らぬ部分も多く混乱していたようです。その頃覚えた学術語で昆虫の学名を並べ、後年世界的の昆虫学者になった甥の江崎悌三を煙に巻いて喜んでいました。その後、築地の府立一中に入り、仙台の二高を経て一高に転入、帝大の仏法科を出て、裁判官の道を歩みました。後の駐英大使松平恒雄氏は二高で同級だったそうです。半二は外国語が得意だったので、外交官になるのが夢だったようですが、半二の幼少時には大層羽振りのよかった父太郎乙が官を辞してしまったので幼くして死んだ長男の代わりに一家を背負う事になった半二は外交官への道をあきらめて地味な裁判官を選んだそうです。当時の外交官は政府が貧乏であまり給料を呉れないので、家に財産があるか、大金持ちの細君でも貰わぬ限り、とてもやって行けなかったそうです。

 裁判官という職業柄、常に物を公平に見ることを心がけ、自分の挙措進退を厳格に規制していました。新聞の記事などではよく鬼検事という名を冠せられましたが、やさしい心も持った人でした。

 姉の江崎牧子は太郎乙の全盛時代に成人したので、至れり尽くせりの教養を身に付け、和歌は中島歌子女史に日本画は誰それに習い、学校は当時貴顕令嬢達の通った、お茶の水女学校に行くといった具合で袴に皮靴を履いて通学したそうです。しかし当時のこととて牛込からお茶の水まで歩いて通ったそうで、たまたま築地の一中まで通っていた半二と同行したこともあるようです。ある時、水道橋で何かの拍子におまきが風呂敷包みを取り落とし、本やお弁当が散乱し衆人環視の中で穴にも入りたい思いの所を半二はお姉さんの為に本はもとよりお弁当の中身まで、全部拾い集めて渡したので、「半二は冷たい人だと思っていたら、本当はとても親切な人なんだね」と感謝したという話です。

 大学を出てから検事としての振り出しの任地は横浜で、それから宇都宮、仙台と転勤しました。仙台に勤務中、上司で控訴院判事だった柳沢重固の世話で、同氏の姪である安東しゅんと明治四十年十二月に結婚しました。しゅん(呼び名はジュン。昔の習慣で、戸籍の届け出の際に濁点をつけなかったので)は山形県天童藩の武士安東氏の四女。御維新後貧乏な子沢山の武士の家の子弟は、当時、学資のかからない教育施設ばかりをねらったもので、長兄斌(サカリ)は陸軍大学、次兄良(リョウ)は海軍大学、長姉まさは産婆の学校、次姉よしは師範学校、その次の姉たまは女高師を出てそれぞれ自活しているというわけで、しゅんも、仙台の女子師範を卒業して釜石の高等小学校の教員をしていました。八人の子沢山の家で育って、貧乏の味はよく知っていようから、同じく貧乏で子沢山の乙骨の家の切り盛りは任せられると思って嫁に選んだというのが後年の半二の述懐です。

 仙台で祝言を挙げたのは柳沢の家です。当時山形で産科医に嫁ぎ自分は産婆をしていたしゅんの長姉まさはその祝言の席に連なったわけですが、後年当時を振り返って言った言葉は「半二さんは実に惚れぼれするような、りりしい美男子でしたが隣に坐ったじゅんちゃんは大層見劣りがしたんでしたっけ」。結婚後間もなく半二は函館に転勤となり、四十一年の十月に裁判所の官舎で長女である私が生れました。函館の港は別名巴港とも呼ばれていたのが私の名前の由来と聞いています。 

 又また東京へ転勤の命を受けた半二は、しゅんの産後の肥立ちを待って妻子を伴って東京の大塚の家に帰りました。

※この随想は長文であるため、数日にわけて打ち込みます。筆者の年代が山本健吉や石橋秀野と同世代であるため、写していて示唆されることが多いです。

芽ぐみ

芽ぐみ

筑後川を跨ぐ六五郎橋、その下の枯芦原に柳が数本。ここから芽ぐみがはじまる。(城島方面から佐賀へ、左手奥は背振山脈)

2006年2月20日 (月)

ペリリュー神社

昨夜「九州少年」という題のミュージシャン甲斐よしひろの自伝エッセイ(西日本新聞朝刊連載中)について、岐阜の小説家斧田千晴からコメントをもらった。そのことについて考える。

西牟田靖の新刊本『写真で読むー僕の見た「大日本帝国」』が東京先行発売ということで、横浜のあっさむさんに頼んで入手してもらう。せっかく著者から挨拶文を戴いてたので、なんとしても読まねばと思った。手にとって驚く。写真で読むとあったから、もっと軽い感じのいわば「旅行記」風の本をイメージしていた自分を恥じる。全く何を考えていたんだろう。文章が意外にたっぷりあって、真正面からのドキュメンタリーになっている。腰をすえて読まねばならない本だ。ただ五つの場所ごとに章を立ててまとめてあるためどの章から読んでもよく、パラパラと写真を見ていたところ最後の章「ミクロネシア」に思いがけず「さざれ石」の写真があった。(223頁)。再建されたペリリュー神社と説明があり、石はいつか「マリオットの盲点」の「お細石」で「nomark」の矢島玖美子さんが紹介して下さったサイトで見た記憶があった。岐阜県春日村産のものである。ここから、入ろうと思う

http://assam226.tea-nifty.comマリオットの盲点、9・13付「御細石」、

『「さざれ石」は比喩ではなかった』(アドレス表示不能)

ペリリュー神社を検索していると、名越二荒之助(なごしふたらのすけ)氏のサイトが見つかった。引用しておきたい。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/palau.htm

ペリリュー島のサクラと神社(無断引用をお許しください。メール送信がずっとできない状態でして、本当に失礼いたします。)

※なお、斧田さんのコメントにある村田治男先生は三重県連句協会の元会長さんで、俳人連句人詩人短歌人です。平成九年、私が初めて伊丹の柿衞文庫での連句興行に参加したとき、それは連句誌れぎおん同人による百韻でしたが、二十人ほどの中に先生がいらして、初めての座を何かと助けていただいた御恩を忘れません。その時座の中で一番若かった私に捌きは文字通り「花をもたせて」下さり、挙句の前の一番大事な花句(百韻の場合、99句目にある)を詠まねばなりませんでした。帰りの時間はせまる、句は浮かばない。横にいらした先生にどうしましょうと相談した記憶が蘇りました。村田先生にはその名もズバリ「みくろねしあ」という題の句集があります。なぜか私は持っていました!

  酋長の正しい日本語星月夜  村田治男

  酋長は語り上戸よ月今宵 

  北緯十度あたりを僕の故郷とす

  戦(いくさ)経しヤップ神社の鳥居かな

  おんおんとミクロネシアの雷神(はたたがみ)

ここまで来て、はたと気づきました。村田治男句集のあとがきは、岸本マチ子先生が書かれていることにです。沖縄の詩人で俳人のマチ子先生は、私にとっては原点にあたる人なのです。書けば長くなりますので省略しますが、俳句や連句に関わる縁を下さったのは、当時戸畑の「天籟通信」におられた岸本マチ子先生でした。先生は東北生れの沖縄人です。やはり、わたしの仕事はこれで間違いはない、といま確認しました。

2006年2月19日 (日)

日曜日は

去年から日曜おひるに「たかじんのそこまで言って委員会」が始まり、それが面白くてほぼ毎週見ています。さすが大阪だなあと思います。活気があるし本音トークがすごい。東京らへんの人たちは、見られないのでしょう。気の毒な反面、ざまあみろですね。

2006年2月18日 (土)

九州少年、九州少女

朝刊にミュージシャン甲斐よしひろの自伝エッセイ「九州少年」が始まった。挿絵は「トーマの心臓」「イグアナの娘」の萩尾望都である。ランニングシャツとジャージ姿の少年が左手にスニーカーをしっかと持って膝を抱えて前方を見つめている。同時代に青春を生きてきたから感慨深い。毎朝きちんと読んでいる。とてもまっすぐできもちいい文章を書く人だ。いつだったか坂本龍一が「banana fish」に寄せている文章を読んだときはガックリきたけど、坂本さんは曲を書く人だから違って当然といえば当然か。向き不向きってあるよね。

先日「ドメスティック」という題で文章を書いたら、読者のかたが励ましのメールを下さってました。そういえば俳句誌に書いている「張形としての俳句」も「妻と二人でハラハラしながら読んでいます」というお便りを読者のかたに頂いた。どちらもとても嬉しかった。(「妻と二人で」というところに九州男児らしい古風な照れが見えて当方もどぎまぎしました。)ありがとうございました。どんなことも、けっきょく自分の中にある「九州少女」を大事にして書いていくしかないと思いました。

追伸:先日「俳友とログ友と」のなかで引用した山本伽具耶(やまもとかぐや)の短句(たんく。七七句)にぴったり合致するようなことを、今朝の「九州少年」は書いておられます。

  父上よ兄上よ雪が積みました    恭子
    神楽笛吹く戦場に月       伽具耶

       連句誌「れぎおん」所収歌仙より

南国の丸い月を見ながら、兵士はふるさとのまつりを想い携行してきた笛を取り出して吹いてみる。ありえないことには違いないけど、句の心情はつたわる。甲斐よしひろの文にはビルマに応召された父上が、当地の木の実でていねいに書いたものらしい楽譜を遺品として残していた・・とありました。どんな劣悪な状況にあっても人は楽しみたいと想うものなのだ・・それが表現するということなのだと。これをよんで、胸が熱くなりました。

2006年2月16日 (木)

乙骨半二

乙骨太郎乙を知るのに本人についての詳細な評伝はまだなく、だからこそ自分流に進めることにして次の資料に参ります。太郎乙の次男・半二について、半二の甥ごさんが書かれた文章があり、それを一部引用致します。「円交」とは乙骨太郎乙一族の親睦会の名称で、当資料も永井菊枝氏提供、これはその五号(平成四年)所収のものです。

    円交昔話

                  古山綾夫

 いつの間にか、私は円交中の最長老になってしまった。私が昔の事を一番よく知っている事になる。円交に関係のある事で私の知る古い記憶を辿って書いて見よう。

 私が尋常三年を終了して四年になったばかりの春休み、明治四十年の三月下旬の事だから、今から七十五年前の話である。私は母さだ(半二のすぐ下の妹、太郎乙の次女。姫野注)に連れられて、妹倭文、弟丈夫と共に大阪から上京して大塚の家に一週間余り滞在した事がある。

 日露戦争直後で朝野は戦勝気分に浮かれ、東京では上野不忍池畔に戦勝祝賀世界大博覧会が開催された。我々親子四人は之れを見物かたがた上京したのである。新橋駅に太郎乙祖父さんが迎えに来て下さり、一緒の人力車に乗せられ、折しもの烈しい雨風の中を、新橋、銀座、京橋、三菱ヶ原、大手町、竹橋、九段下、飯田橋、大曲り、安藤坂、と辿って、やっとの思いで大塚に着くことが出来た。

 大塚の家は大変暗く穴倉にでも引き込まれるような気がした。おつぎ祖母さん(太郎乙の妻、杉田玄白の曾孫。姫野注)が迎えてくれた。

 「綾ちゃん達遠い所をくたびれたでしょう」と言って、早速生卵を割って呑ませてくださった。今で言えばテンダーロイン・ステーキを焼いて下さったと同じ様なもの、当時大塚の家はー否、日本の一般庶民はその位質素な生活をしていたのである。(中段略。大塚ののどかな田園風景と鬼子母神の森へのピクニックで狐に道を迷わせられた牧歌的な話、電灯さえなかった当時、家ではランプであった頃、大博覧会のイルミネイションにたいそう驚いたこと、まき伯母さんちの江崎邸に一泊し庭に唾を吐いて叱られたこと、その件に関して他人の子を叱る伯母を偉いと讃えている。)

 さて、最後に乙骨半二の事。半二は偉い人だった。私は半二に学ぶ所が多かった。半二は公私の別を実にはっきりとわきまえた人であった。私生活では大酒をやるなどの点で批判する向きもあったが、公生活に於いては公正無私、正に範とすべきものがあった。今の政治家や役人共に半二の爪の垢でも煎じて飲ませたい位である。

 半二は東京地方裁判所の検事時代、時の検事正小原直に私淑して彼を尊敬していた。小原は後に検事総長になった人である。私は慶応の学生の頃大塚の家に遊びに行くと、半二は酒を飲みながら、よく小原の話をして呉れた。頭脳明せき、公平無私、テキパキと事務を処理して、小原の机の上には書類などは何もなかったと言った。その後半二は控訴審検事になった。半二は二階から三   階に移っただけだと恬淡としていた。その後古山の家は台湾から引き揚げて浦和住いとなった。半二が浦和の家を世話して呉れた関係で、私は半二を控訴院に訪ねた事があった。そして驚いた。法服を着た半二の机の上には塵一つなく灰皿が一つ置いてあった。他の検事の机はと見ると、そこは雑然とした書類の山であった。小原の後には中川某が検事総長となった。中川はき帳面な人だったらしい、乙骨を検事総長室に呼んで、

「君は仕事はよく出来るが、大酒をやるそうだ。酒は色々の弊害を生むから慎みたまえ」と訓戒を与えた。半二は「人の私生活にまで関与するとは何事ぞ」と激怒して辞表を叩きつけ野に下って弁護士となった。

 乙骨法律事務所は虎ノ門の目抜きの場所にあった。桜田門から三田へ行く市電の中からよく見えた。私はしばしば訪れたが、これ又驚きの一つ、法律事務所でありながら、事務所の棚にはウイスキー、ブランデー、ジン、ウォッカ、ベルモット等等、と洋酒がズラリと並び、まるでバーにでも入った錯覚を起こさせる。机の上は奇麗さっぱり、六法全書は何処にあるのかと探す程である。それでいて依頼人の来訪は引きもきらず、刑事弁護士の重鎮として斯界に重きをなしていた。

 或る日虎ノ門の事務所から牛込横寺町の自宅へ帰る途中、市ヶ谷一口坂の辺で他の車と接触しそうになり、急ブレーキをかけた為、乗っていた半二はガクリと来た。爾来半二は体調を崩した。頭が重い、頸と背中が痛いと訴えて床に就き勝ちになった。

 半二が手がけた最後の大事件は大阪の松島事件であった。松島事件と言うのは大阪の飛田遊郭の移転問題に絡む疑獄事件で、時の大物政治家、高級官僚を巻き込んだ大事件であった。半二は政界の大物箕浦勝人の弁護を引き受けた。当時の大阪朝日新聞は「乙骨弁護人は下世話に砕け人情の機微を穿つ弁護をした」と評した事を私は昨日のことのように覚えている。思うに、他の弁護人が法理論を盾に堂々の論陣を張ったのに対し、乙骨弁護人は一人「元来人間とは過ちの多い者である。被告人は平素は人格高潔の士であるが、魔がさしたとでも言うべきか。積極的に悪事を働いたのではない。その様な人間を縛るのは法の精神ではあるまい。どうしても法に触れると言うなら、罪は最小限度に止めて頂きたい」、というような弁護をしたのであろう。決して黒を白と言いくるめる様な、き弁を弄する人ではなかった。先にシーメンス事件に際しては鬼検事として被告人どもを震駭させ、松島事件では野に下って弁護人として人情の機微に徹する弁論をした。半二の面目まさに躍如たるものがあった。之れを最後に弁護士界から手を引いた。半二は自信を失った様だった。「自分はもう乙骨半二にふさわしい弁論は出来ない」と言って持って来る事件は皆他に回した。「頭をそれ程使わずに、収入も多い公証人の仕事はどうだ」と勧める人もあったが「乙骨半二ともあろう男が公証人などになり下がれるか」と半二の矜持が之を許さなかった。虎ノ門の事務所を閉ざして、自宅を改築して事務所に当てた。

 妻のしゅんは何とかして半二を戻らせようと懸命に努めた。半二の気を紛らす為に二人で熱海に逗留した事もあった。当代一流の医者にも診せた。併し総てが徒労に帰し、半二は漸く老境に入って行った。半二自身は名古屋の宿で酔って寝ている時頭に西日が当ったのが原因だと言っていたが、今にして思えば一口坂のショックの後遺症に相違ない。今ならギブスをはめるなり何なりやり方もあったものをと痛恨に堪えない。 

 半二は昭和二十三年二月九日、新宿区下落合の自邸で静かに逝った。享年七十二才だった。(筆者の古川綾夫氏は平成三年二月十四日没) 

※引用しつつ、感じたことを記しておきます。

乙骨半二の人となりで最も目を引いたのは、やはり酒を好んだことと、そのことをとやかくいう上司に憤慨して辞表を叩きつけた、という一件です。これは、先日来せっせと写した小島直記著「無冠の男」の、「日本最初の経済論争」の項に登場する田口鼎軒(卯吉)を彷彿とさせるものがあります。というかまったくおんなじであります。卯吉も最初の就職で大蔵省に入ったものの五年間ひらのまんまだった、それはなぜというに「余は柔弱なれども人に屈下する能はざる性質を有するをもつて、紙幣寮(大蔵省)にありしときにも、三度まで紙幣頭(局長)に逆らひしことあり。ために五年間奉職せしかども位一級をも進まざりき」、自分のすることにけちをつけるボスには逆らったからです。結局卯吉はせっかくの職場を退きます。まだ年代の重なりぐあいを計算しておりませんが、太郎乙に少年時代ひきとられ養育された田口卯吉と太郎乙の次男(長男敦が系図に見えぬのは幼少に亡くなったものと思われる)の半二が、そのまっすぐな気性においてよく似ているのは、おそらく太郎乙の気性を、またその父乙骨耐軒の「狂狷」を引き継いだものと思われます。               

2006年2月15日 (水)

ドメスティック

 家族には軽くころんだことにする  広瀬ちえみ

矢島玖美子さんの八百字エッセイ「水曜は癖になる」に引用されていた川柳です。刹那的に生きている私は、この句を読んだときぱっと連想した景を矢島さんのブログに記したのですが、それからなぜか気になって後ろを振り返ってしまうのです。大事なものを落っことしてきたような気がして。

もしやドメスティックバイオレンスを川柳として詠んだものじゃなかっただろうか。あ。でも、家族には、とあるからそうじゃないんだ。どうもこういう思わせぶりな句は気になって仕方がない。www.geocities.jp/nomark6061/yajimatop.htm

短大を卒業後何も考えていなかった私は、なりゆきでまず空港警備の仕事に就いた。福岡空港に女性警備員が初めて入った年のことだ。金属探知機のそばで搭乗客のボディチェックをするあれである。わずか八ヶ月しかもたなかったんだけれど、あの仕事は強い強い印象を私に刻んだ。そこで出会ったさまざまな職種の人たちが忘れがたく、いまでも夢にでてきたりするのは、ほんとは辛かったんじゃなく楽しかったからかもしれない。すぐ背後にいた頼もしい機動隊の人たち、すれちがう地上職の男たち、美しいスチュワーデス、かっこいいパイロット、それに空港を守る老若さまざまな人々。みな生き生きしていた。

各航空会社のアナウンスが始終流れる中ゲートに立っていると、「ドメスティックエアラインズ」という言葉を日に何度も耳にした。国内線のゲートだったからだ。ドメスティックという言葉を初めて聞いたのは、だからそのころである。

五歳の一人子をのこし昭和22年に38歳で結核死した昭和の俳人石橋秀野を調べることになったとき、わたしは42歳だった。16年住んだ博多をひきあげて八女に越してきたばかりで、末っ子は五歳だった。なにも分からないまま、必死で調べて必死で書いて、体うごかす仕事をして、でも夫とはうまくいかなかった。同居の父母からいろいろ言われるのも重荷で、苦しくてつらくて無意識に長女にあたっていた。

秀野の親友だった田中澄江が、疎開による流離の苦しさを訴える秀野に諭すことばがある。たくさん愚痴をこぼす秀野に「いいえそれはあなたが間違っている。俳句とかする人たちはドメスティックで自分勝手だから世間がわからないのよ」といってたしなめるのだ。ここでまたはからずも「ドメスティック」にぶつかったのだが、なにか不思議な気がする。今でもそれほどポピュラーな言葉とも思えぬのに、昭和初期の女性たちが日常的につかっているのが面白いではないか。換気扇を詠んだ感覚的な句もある。

 青嵐ベンチレーター軋み鳴る  秀野昭和14年

私の娘はみためはとても可愛いのにわたしのいじめのせいで根性が逞しく育ち、早々と親離れしていった。いまにして思えば、あのころの自分は夫婦仲がうまくいかぬことで静かなる家庭内暴力をふるっていたのだと気づく。もちろん今もよくはないけれど、年がいったぶん気持ちに余裕がもてるようになった。こんなに「老い」を有難く思うことはない。さいごに一昨年詠んだ青嵐の句を書いておきたい。娘が女になった感慨を詠んだものだ。

 ジージャンのポッケにスキン青嵐  恭子平成十六年

2006年2月13日 (月)

マザースカイ

いま、いちばん好きな自分の時間は、車を長距離運転中いろんなことを流れるがままに思うことだ。運転しない方に説明すると、それは瞑想や、連句やってるときや本を読むときの感覚に近いように思う。目はちゃんと周囲の景色や状況を見ている。手はそれに応じてハンドルを切ってる。でも心は常に別のところにあって、常に動いている。そのはざまが時に不思議なのだ、心と体の関係みたいで。

きのう八幡の都市高から佐賀へ向かっていたとき、すぐ前を全国競翔連合会というロゴの入った車が走っていた。ログ友倉本朝世さんとこの競輪をすぐ連想した。競翔会ってなんだろう。気になって字が読める位置まで接近すると、鳩レースという字が読めた。はとのとばしっこだ。

こころのなかに歌がわき出てくる。・・ぼくの鳩小屋に 伝書鳩が帰ってこない・・森田童子のLP「マザースカイ きみは悲しみの青い空を飛べるか」(こんな長い題だったような)に入っていた歌である。成人式を迎えて一年で死んだ弟が晩年毎日のように聞いていた。大事にしていたのに、法事のとき従妹が貸してねといって持ち去った。もう催促する気にもならない。あれはいったい何年に出た曲だったのだろう。森田童子、いまだに気になっている。

※ばどさんご紹介のブログhttp://plaza.rakuten.co.jp/masiroku/diary/200602040000/

(下記に印象的な数行を引用させてもらいました。ありがとうございました。)

わたしは青春途上の死者たちを今でも忘れてはいない。
その記憶の案内人こそ森田童子である。

個人による個人のための個人へ
表現はこの世界に現有するもうひとりの自分へと
向かっていく。それが身体の糸である。

そして表現とは
いかなる時代になろうとも、何十年が過ぎようと
人の営みのなかでくりかえしくりかえし反復していく。

    フリーメーソン・ベンさんのブログより。

2006年2月11日 (土)

青切符

青切符

戸畑は八女ではなかった。

2006年2月10日 (金)

無冠の男 5

(1・27付「無冠のおとこ4」からの続きです。太郎乙の出番がまだ残っていました。ぐうぜん間で挟んだ永井菊枝氏の文には菊枝氏の実父・乙骨半二が敏腕を揮うシーメンス事件への言及があり、引用せねばと思いました。前回まで・・明治二年五月、太郎乙につれられ沼津に行った田口卯吉少年は乙骨家から沼津小学校へ通った。その同級生に三つ年上の島田三郎がいた。この島田についての説明で始まる。)

 大正三年一月、衆議院予算委員会の席上、帝国海軍軍人の収賄をあばいたロイター電所載の時事新報を右手に、山本権兵衛内閣の斎藤実海軍大臣にくってかかり、「シーメンス事件」の導火線となった人物だ。十俵二人扶持の下級武士幕臣のせがれ。

 兵学校の学生は、資業生と本業生にわかれていた。前者は修業四年。後者は三年で卒業の上、得業生となり、士官の選に入る。

 島田は明治二年九月、第四期資業生に及第。卯吉も第六資業生となったが、科がちがっていた。明治二一年、欧米旅行に出る島田の送別会で、

「君はじつに将校たらんと欲した。故に孫子の兵法を学び、仏式の体操をならった。しかし自分は、臆病だったために、将校ではなく医者になろうとした」

 と卯吉は語ったことがある。

 しかし、兵学校は明治五年三月解散。その前の四年七月廃藩置県断行のとき、島田は中退して上京し、江藤新平の家に家庭教師として住みこんだ。

 卯吉の方は、さらにその前の三年一二月、乙骨太郎乙が静岡藩校の教官として転勤するとき、静岡病院で医学修業を命ぜられ、四年五月、静岡病院生徒を命じられた。

 このまま進めば、医者田口卯吉となり、日本最初の経済雑誌『東京経済雑誌』を刊行した経済評論家田口鼎軒は実現しなかったはずだ。

 ところが、院長が東京に転勤となったとき、卯吉も旧資格のまま、医学研究のため上京の命をうけた。ところが島田三郎と再会し、運命は医者コースから大きくはずれる。

 乙骨ー島田との出会いというホップ・ステップで、経済学にジャンプするのである。

 田口卯吉が上京して島田三郎と会った頃、官立東京大学科学専門学校というのが新設され、生徒募集中であることを知った。

「受験しよう」 

 と島田がいい、二人は合格した。ところが、この学校は開かれず、大学予備校に転入したが、間もなく島田といっしょに退学した。

 卯吉は、尺振八のつくった私立共立学舎に入ってまた医学の勉強に戻った。島田は独力で経済学の勉強をはじめた。

 五年十月、大蔵省では翻訳局をつくって生徒を募集した。翻訳局は、頭取が尺振八、教頭が乙骨太郎乙、英語教師には外人がいた。場所は浜町三丁目。「尺も乙骨も旧幕臣で新政府に仕えることをいさぎよしとしなかったが、官費をもって貧乏書生を教育する自由はこれを許されたので、節を屈して役職についたのである」と嘉治隆一は書いている(『田口卯吉』)。卯吉はここに入り、島田も入ったので、またいっしょになった。しかし島田は、そこを卒業する前に、横浜に出て、だれかの手づるをもとめて洋行したいと考えた。そこで「横浜毎日新聞」の翻訳記者となったのである。これは、明治三年一二月一二日に第一号を出した日本で最初の日刊新聞だ。

 

走り根

走り根

2006年2月 9日 (木)

西牟田靖の本

「坊ちゃんナショナリズム」の末尾でご紹介した『僕の見た「大日本帝国」』の著者・西牟田靖氏から、紹介お礼と続刊『写真で読むー僕の見た「大日本帝国」』発刊のごあいさつコメントをいただいてました。右下の見出しからどうぞご覧下さい。今やってる乙骨太郎乙(日本の国歌に「君が代」を推薦した人)を深く知るための研究も、ブログ「マリオットの盲点」のassamさんの歴史への興味も、このブログを読んでくださってる方々すべての想いの何か、ことばで言い表せない何かにつながっていて、その意識の触手が招きよせた最初の本です。

川柳家・矢島玖美子氏の「矢島家 矢島玖美子第一句集」のあとがきに、

「パソコンの画面を見ていると、このむこうには無限の宇宙がある、と錯覚することがある。

自分の句集が見知らぬ誰かに届くかもしれないという妄想は魅惑的である。妄想が現実化するためにはインターネットの回路のほかに、作品の力が必要なのだが。

この本が、あなたと川柳の宇宙とをつなぐ装置になりますように。             

    二〇〇一年十月   矢島玖美子」

この文章はわたしのおもいをほぼ言い尽くしてくれてます。同時代をほんのちょっとだけ重なって触れ合って生きるわたしたちですが、それは意味ある重なりだと信じます。この世界の外に出なければ、この世界は見えません。向こう側から心配そうな顔をして見守ってくれている大いなるものの視線を感じるときがあります。西牟田靖のまなざしは、その視線にも似て、あたたかい。政治的なイデオロギーに染まっていない世代のたましいがもたらした、「問いかける一冊」です。そのキャッチコピー「歴史には、触れてはいけない禁忌などない。」

2006年2月 8日 (水)

俳友とログ友と

 烈風の戸に柊のさしてあり   石橋秀野昭和十四年

きのうはとても風が激しく折々に雪も舞う惨憺たる天気だった。中国大陸からはたくさん黄砂が飛来したであろう。冬と春が交差する「ゆきあいの季節」にはいつもこうだ。毎日、家に閉じこもって読書三昧の日を送っている。家業のいちご栽培を手伝っていたころは本を読むのは楽しいことだったが、義務と決めて読む本はきついものだ。しかしどうしても読まねばならぬものがあり、だからこそこれは「仕事」なのである。金銭には全然結びつかぬものながら。

二年前に解散した連句会「亜の会」仲間の周南市在、山本伽具耶氏から昨日ひょっこりファックスが届く。うわあかぐやさん、ひさしぶり!みれば新聞の詩歌コラムに上記の秀野句が採られていたので、私を思い出してくれたそう。(筆者は長谷川櫂)亜の会はれぎおんの前田先生が組まれたユニットで、七年ちかく来る日も来る日も連句ばかり巻いていた。連句はふしぎな文学で、たとうれば「意識の共同風呂」である。時空間の枠が外されたなかで幽体離脱した意識があつまり、歌仙のみこしを担ぐ。連衆は同じ釜の飯を食った感じで他人とは思えない。貞永まこと氏の遺句集がまだ出ない(奥様が産婦人科医で暇がないのと奥様も俳人だから出すのならいいものをと思われるのとで中々難しいようです。年賀状にもそのことが書かれていて、わたしもつらくなりました)のは非常に残念ですが、でもいつかきっと世に出る俳人だと信じているし、みんなもとてもすごい仲間だったなあと今しみじみおもう。(だいいち、わかかったよねえ!)

同じ日、やはり連句仲間だった大分の横山康夫氏から俳句同人誌がとどく。古風なかたで、日常的に旧仮名・旧漢字を使って書かれます、俳句だけじゃなく文章も。いまなお忘れられない彼らの短句があります。流れの中で出た句ですが、シングルカットに充分耐えます。山頭火の句のように。

 山葵田を出る水のまぶしさ  横山康夫

 神楽笛吹く戦場に月  山本伽具耶(自分の前句は忘れたのに)

連句をやめたから、こころがひもじいのだなとやっと気づいた。ブログを開こうと思ったのも、こころの友がほしいからだ(欲を言えば俳友がほしい)。幸いなことにあっさむさんや倉本朝世さんや矢島玖美子さんのブログへの書き込みを通じて、ともだちが出来つつあります。このあいだなんて斧田千晴本について自分が書いたことに落ち込み、夜道で避けがたくひいてしまった犬の死体(でしょうかたぬきでしょうかいたちかも)に落ち込み、どうにもこうにも暗い気持ちでいたら、あさよさんとこのばどさんという句のうまい極道渡世人から救われました。あれはありがたかったな。

かぐやさん。横山先生。どこかでこのブログみてくれてたらいいんですが。またきっといつか、連句ばしまっしょい。ではでは。

2006年2月 7日 (火)

乙骨耐軒とその子孫

先月、乙骨太郎乙の子孫のかたがお送りくださった資料から、いくつかご紹介したいと思います。資料提供者は明治史料館に太郎乙の八十賀漢聯句軸(当ブログ「乙骨太郎乙の精神世界1」所収)ほか沢山の史料を寄贈されている、東京在住の歌人・永井菊枝氏(88歳、太郎乙の実質的な長男である半二の娘)です。先日「江戸ッ子」で最後の部分だけを引用したのが気になってましたので、全文引用します。いまの時代に微妙にひびくものがあると思いました。

   「乙骨耐軒とその子孫」       

                      永井 菊枝

 乙骨氏の遠祖は信州諏訪郡乙事の出身(耐軒の号に乙事木樵とあるのは之に由来する)で徳川家康に認められ幕臣となる。その十一代目が彦四郎耐軒である。昌平黌の儒官・漢詩人として聞えたが、天保十四年、昌平黌の分校甲府徽典館(きてんかん)の初代学頭として友野霞舟と共に甲府に赴任、嘉永六年にも再度学頭に任ぜられている。今、山梨教育学部の門内「重新徽典館之碑」の面の中程に「乙骨寛副焉」の五文字を見つけ、又名勝昇仙峡に耐軒選「仙獄新道銘」なる磨崖碑を仰ぐとき、耐軒と甲府との御縁の深さを沁々と思う。

 耐軒の長子太郎乙は漢学・蘭学、後、箕作麟祥(みつくりりんしょう)より英学を学び、蛮書調所ー開成所教授を経て、維新後は徳川家の家学沼津兵学校の教授となる。明治五年、新政府は大蔵省翻訳局を立て、太郎乙を同局教頭に任じ欧米先進の文献の翻訳と子弟の英語教育に当らせた。太郎乙の妻継(つぎ)は杉田玄白の曾孫。その姉縫(ぬい)の夫富田鉄之助は勝海舟の愛弟子で、米国留学中岩倉使節団に引きぬかれ欧米巡察に従う。後、二代目日銀総裁や東京府知事を歴任した。耐軒の次男絅二は文久三年の遣仏使節団一行に随員として巴里に行っているが、同じ幕臣上田家に養子に入り、その一子が英文学者というよりは、訳詩集「海潮音」で有名な上田敏。敏の女婿嘉治隆一(朝日新聞論説委員)の「人物万華鏡」によれば、退官後の太郎乙は亡国の遺臣として遂に世に出る事なく専ら旧幕臣の子弟の教育や指導に一生を捧げ大正十一年に歿した。太郎乙の姉錦(きん)の一女多喜は太郎乙の養女として育ち、長岡藩出身の眼科医甲野棐(たすく・東大教授・明治天皇侍医)に嫁し、その孫に著名なヴィールス学者甲野礼作が居る。太郎乙自身の長女牧は明治の著名な歌塾中島歌子の萩の舎で樋口一葉や三宅花圃と同門で、一葉日記にもその名が登場する。太郎乙の二男半二、即ち筆者の父は、現代のロッキード事件にも比すべき大正年間の大疑獄シーメンス事件に検事として敏腕を揮った。三男の三郎は上野音楽学校(現芸大)教授として西洋音楽史を講じ、我国の洋楽普及啓発に尽し、又文部省唱歌「日の丸の旗」「鳩」「池の鯉」「浦島太郎」「汽車」等の作詞をしている。

 総じて太郎乙以下乙骨一族の学殖は和漢洋、特に当時としては洋学の方に広く深かったが、その生活感情は飄逸・洒脱・名利に恬淡、加えて酒飲みー之は「都下の溝渠の深浅を知る」(中野香亭の「香亭雅談」)と云われた耐軒の直伝であろうし、すべてに於て江戸ッ子的だった。

乙骨三郎作詞の童謡について初めて知り、たいそうおどろきました。「はと」は、あの有名な幼稚園から小学校へあがるときの「はとぽっぽ」だったからです。からだがふるえるようなおどろきです。「汽車」は「いまはやまなか、いまははま」という馴染みある歌、「浦島太郎」は誰でも知っていますけど、作詞者をしりませんでした。名利に恬淡だった乙骨耐軒や太郎乙を彷彿とさせるものがあります。(姫野)

※「甲府徽典館」で検索中、乙骨太郎乙新史料について書いておられる青木昇というかたのサイトを見つけました。おもしろいです。なぜなら西洋医療が入ってくる直前の精神科治療について触れてあるからです。アドレス書いておきます。

花畑出身の将軍家侍医青木春岱ーその15、青木昇

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Poplar/2244/a-shuntai15.html

(上記の筆者青木昇氏に引用許可をお願いしようとしたのですが、メールの宛先がどうしても分からず、勝手ではございますがこの文面にて事後承諾をお願いいたします。上記を読むことで太郎乙の精神世界が又少し開けます。なにしろまだぜんぜん足りないのです。青木氏の説明で、どのように太郎乙が紙を大切に使っていたか分かります。もっとも当時は誰もそうでしたでしょうが。推敲しすぎて本人にしか分からないという件、お察しいたします。)

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2006年2月 5日 (日)

狂狷

坂口筑母「乙骨耐軒ー幕末の官學派詩人」にあった、「人は彼を評して狂狷の流れといい、純儒の経を枉ないという」をずっと考えています。江戸時代の俳人芭蕉の風狂にもつながってくる思想で、山本健吉の種々の本などにも関連してきます。

ブログを探しておりましたら、格好のサイトを発見しましたので、どうぞご覧ください。

白川静インタヴュー「文字の世界を読み解く」

http://www.bookclubkai.jp/interview/contents/019.html

この白川静先生のおっしゃっている狂狷の説明をよみますと、たとえば俳句という最小の器に自分の思いを盛るときのあられもない葛藤が思われます。今を生きる女性や俳人には意外にすんなり受け入れられる思想であるように思います。

2006年2月 4日 (土)

日脚伸ぶ

日脚伸ぶ部活だんだん長くなる   樋口亮匡(中一)

学校にいん石落ちて日脚伸ぶ    中島啓太(中一)

「学校に隕石がおちる?」

「おちんのやけどね。こう書きたいわけよ。」

「なし?」

「なしでもいいけん、書かして。」

勉強は進まず正座は続かず。とほほだけれど、俳句はそれなりに俳句らしくなってきた。(ヒキャクノブと二人とも読んでいた。季語なしで作らせると川柳のオンパレードになって収拾がつかない。新しい季語をマスターするのが課題です。)

今朝はまた、雪がふっていた。年に一度の定期検査に次男を連れて久留米へ行くと、そこはもっと雪が積んでいた。血液の方の結果はすぐわかり、改善してたので安心する。ついでに身長を測るとやっと160センチ(髪の毛を抑えないで)になっていた。喜ぶかと思いきや、165センチあるかと期待してたんだって。笑った。さあ一年で何センチ伸びたかな。

検査

検査

検査

雪の聖マリア病院

2006年2月 2日 (木)

江戸ッ子

そうか。江戸ッ子だったんだ。

去年の暮、神田の古書店の通信販売で安く手に入れた石川桂郎「剃刀日記」を、ほかにもたくさんやることあるのに読みたくて仕方なくなり一気に読んだ。まだ戦塵がもうもうと立ち込めているかんじのする製本で紙質も綴じ方もわるく、誤植たるや字が横っちょむいてたりする。

石橋秀野の物語に石田波郷の「鶴」仲間として出てくる、床屋さんだった人である。写真をみれば芥川龍之介を庶民的にしたような印象だ。秀野が亡くなったときいろんな文学者が悼辞を書いているが、石川桂郎の「その日の顔」という文がことに心を捉えた。筆にいきおいがあり、しかも細かなとこまで気が行き届いている。どんな人だったんだろうってずっと気になっていた。

期待は裏切られなかった。床屋の目を通して描いた当時の東京下町の人情模様が、一文一文ていねいに紡がれている。鉛筆で書き何度も推敲したのに違いない。まずしくて正月の餅買うお金もないような生活をしていながら、まわりの人たちへ惜しみなくこころの援助をしている。こどもへの愛情もふかい。あれ。最近こういう人をどこかで見たなあ。・・

そうだ。乙骨太郎乙だ。

乙骨太郎乙であり、彼の父耐軒がすぐに思い出された。嘉治隆一「乙骨太郎乙」と小島直記「無冠の男」を写しふしぎでならなかったのは、自分も子沢山だったのに太郎乙は田口卯吉を養ったり姪を養ったりしている。この余裕はいったいどこから来るんだろう。お金なんてないのに。煙を上げることすらできない日があった、と「乙骨耐軒」に書かれているくらいだから、その子の太郎乙も似たり寄ったりの貧乏暮らしだったはずだ。(家極メテ貧、薺塩ヲ給セズ、火モ挙グル能ハザルニ至ルコト屡ナルモ、シカモ晏如タリー「乙骨耐軒」坂口筑母)

先月末、太郎乙の没年の確認を通して東京在の太郎乙直系の子孫である永井菊枝氏から、さまざまなご教示をいただいた。その一つに「乙骨耐軒とその子孫」と題された永井氏の文章があって、簡潔に一族の紹介がなされている。全文引用をしたいのだが、今その余裕がない。だから締めくくりの一文を引用する。

「総じて太郎乙以下乙骨一族の学殖は和漢洋、特に当時としては洋学の方に広く深かったが、その生活感情は飄逸・洒脱・名利に恬淡、加えて酒飲みー之は「都下の溝渠の深浅を知る」(中根香亭の「香亭雅談」)と云われた耐軒の直伝であろうし、すべてに於て江戸ッ子的だった。」(山梨県立文学館「資料と研究」第五集所収2000年刊)

都下の溝渠の深浅を知るー酒飲んで酔っ払って溝に落っこちてがしばしばだったということをさす。

乙骨太郎乙。石川桂郎。貞永まこと(平成十四年没。俳人連句人)。わたしのなかで、この三人が一つになる。すなわち、江戸ッ子というキーワードによって。

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