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2006年2月28日 (火)

乙骨家の人々 9

 或る時、自転車で裁判所に出掛ける途中、追突事故に遭い、気を失って病院にかつぎ込まれるという事件が起こりました。間もなく意識は回復しましたが、以来、頭が痛いという日が続き、苦痛を鎮める為に酒を呑む、という不合理な生活になりました。医者にも診て貰ったのですが、当時は脳外科なども余り発達していなかったのでしょう、今から考えれば、ムチ打ち症ではなかったのかと思われます。記憶力も不確かになって来たので、裁判に対する判断力に自信を失い、遂に弁護士を廃業してしまいました。虎ノ門から牛込の家を改築して自宅と事務所をここに移した時は大分借金をしていましたので、その借金を返す為に牛込の家を売って、下落合に家を新築して移り住みました。

 収入も恩給だけになって見れば、生活も地味になり、次第に酒の量も減って来たところへ戦争による物資不足で僅かな酒すら手に入り難くなって自然に酒は止めてしまいました。それが幸して病気は徐々に回復して来ましたが、再び職につく意欲もなくなって、散歩や読書に明け暮れる生活になりました。その間、弁護士の跡を継がせることを心ひそかに念じていた長男の死に遭うという異常事態が起こりましたが、半二もしゅんもまだそれ程年をとっていませんでしたので、どうにかその危機は乗り越えました。

 次女の婿の病死、次男の結婚・出征、三女の結婚など、様々な事を送り迎えて戦争時代を過ごしましたが、遂に、戦況の悪化から、老人・子供は東京から田舎へ疎開するようにと命ぜられました。

 疎開先で妻を失った半二は知人に貸してあった下落合の家の一間にやっと末娘花と共に戻って来ました。運命を甘受した半二は実に我慢強く不自由な生活に耐えていました。当時重病の床にあった夫綾夫の看病に手を離せぬ為、私はめったに父を見舞う事が出来ませんでしたが、或る訪れた時机の上にたった一つ置かれたふかしたさつま芋を前に憮然とした表情で坐って居た父の姿を忘れる事ができません。恩給も無きに等しい状態の昭和二十二年の終わり頃の事です。  

 二十三年の二月に二階から降りた階段の下にうづくまって倒れた半二を急いで借家人に明けて貰った階下の部屋に寝かせ、婿の永井友二郎医の診察を受けさせましたが、病状は重く、胃癌との事でした。少し前から食事が通り難かったとか。恐らく死の間近い事を予知してじっと時の来るのを待って居たのでしょう。貧血で倒れたのかも知れません。意識は最後まで確かで、「血を吐くことがあるかもしれないから、皆あわてない様に」とか、「時に取り乱す事があるかも知れないが許してくれ」とか、「今は薬も貴重な時代だから、若くて将来のある人の為に使ってくれ。私の為なら何の注射もいらない」ときっぱり断り、冷静に死を迎えたのは二月九日のことでした。私は綾夫の看病の為に父の死をみとる事が出来なかったのは心残りでした。経済的に苦しい事情であろう事を察して、「これでお葬式をしなさい」と親切にも五郎叔父が渡して下さったお金で、無事葬式を済ませることが出来ました。子供や孫たちが火葬場まで行きました。

 思い出す人々はいずれも、せい一杯真面目に人生を生きた、よい人達ばかりでした。

※最終段に登場する半二を看取った永井友二郎医師とは、当資料「円交」五号の提供者である東京在・永井菊枝氏(半二の三女)のご主人にあたります。乙骨太郎乙には四男五女(長男は早世)、跡継ぎの半二には二男四女(長男は戦病死)があります。

 十日近くかけて入力させていただきました。打ち終えるのが惜しまれるような静かな埋み火のような筆致の御文章で、多くの乙骨太郎乙の影と出会うことができました。

 家系図で名前という符牒のみの存在と対面することを仮に「第一次コンタクト」と名づけるとしますと、名前を起こして濃淡の彩色を施したかのようなこの立体的な映像との出会いは「第二次コンタクト」なのだと思います。太郎乙から半二親子二代に亘る乙骨家の歴史が淡々と、ごくごく客観的に描かれています。太郎乙と半二どちらも妻に先立たれた晩年であることが目を引きました。この時代の女という仕事の重さを思わずにおれません。

 秀野絡みで学ばせていただいた事は数知れません。ありがとうございました。(姫野)

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