無料ブログはココログ

« 乙骨家の人々 5 | トップページ | 農耕と園藝 3月号 »

2006年2月26日 (日)

乙骨家の人々 6

 五郎、おとく、おろくの三人は私の小さい頃は離れに住んでいてとても仲のよい兄妹でした。大学生だった五郎は私達によく巖谷小波のお伽噺を聞かせてくれました。又、子供達を相手に自分がゴンジイさんという役目になり、私達には畑を荒らす子兎という役を与えて庭中を追い掛け廻しました。少し長じてからは鈴木三重吉の編集する「赤い鳥」を買い与えて私達に文学への手引きをして下さいました。大正デモクラシーの思想は知らず知らずに私の心に染み込みました。彼ら三人の会話は子供心にも機知に富んだものと思えました。お礼を言う時はサンキューと言うことをその頃彼らのやりとりの中から覚えました。三人とも貧乏でしたから粗末なものを着ていましたし、五郎は学校に行くのにひやめし草履を履いて行ったのですが、彼らの部屋には何とはなしにハイカラな空気がただよっているのでした。当時、どうしてか叔母の持っていたコティの紙白粉の故だったかも知れません。おろく叔母が第二女学校の五年生の時私は竹早町の女子師範学校付属小学校に入ったので道が判らぬ私は暫くの間、叔母に連れられて通学しました。毎朝ギリギリの時間に家を出て大股で歩く叔母について、私は半分泣きべそで半分走りながら学校に行ったものでした。子供の足では三十分近くかかったでしょう。運動会の時には女学校の人達は和服に袴、たすきをかけて、エイエイと掛け声も勇ましく薙刀の試合をしました。おろく叔母の勇姿を感心して眺めたものです。

 おとくは学業半ばに病に倒れ読書や習字に明け暮れ療養に努めましたが、何の薬もなかった当時の事とて数え二十七でおろくの後を追うように亡くなりました。髪の毛のやや赤い細い声で話をする、文学好きの人でした。病気が移るといけないというので亡くなる少し前は私達は部屋に出入り禁止でした。「子供達によろしく。嫂さん長い間お世話になりました。」と言う最後の言葉も私達は母から聞きました。

 それにしても、家の中に二人の結核患者(註・太郎乙ととく)を抱えて小さい子供達を育てていた母しゅんの心遣いは並々ならぬものがあったと思われます。食器は全部別で厳重な熱湯消毒をしていましたし、離れの病人の部屋に入る時は割烹着を取り替えていました看護婦も雇っていましたから、気苦労もあったでしょうし、費用も大変だったと思われます。母自身は子供の時るいれきの手術をして首に傷跡がありましたから、結核に対する免疫があったわけで、それがあんな結核の巣のような所で二人の病人をみとるのによく耐えて健康でいられた原因でしょう。

 ともかく死者の多い家で寂円寺に行っては親鸞上人の「白骨の御文章」を聞く機会が多かったので人間のはかなさが身にしみて自分も若死するのが当然のような気になったものでした。

 太郎乙おじいさんも亡くなり淋しくなった大塚の家でしたが、薬研堀の甲野眼科医院に使用人達の監督として住み込んで居られたチンチロの叔父、叔母(兼三・たよ)が大正十二年九月の大震災で焼け出されて歩いて辿りつき、以後大塚の家に住むようになりました。叔父さんは間もなく焼け跡整理に行った時に鼻にばい菌が入ったのが因で十月に亡くなりました。兼三大叔父は誰があだ名をつけたのか昔からチンチロリンの叔父さん叔母さんと呼ばれていました。これは親戚中公認なので、電報などの場合名前はチロで通用しました。兼三はごく若い時に政府からイギリスに留学させられましたので、英語は本場仕込み、スタイルもよく中々のしゃれ者でした。頭もよい人なのに、どういうわけか一つの職が永続きせず、秋田の鉱山監督局、ハワイの移民監督官などを経てしばしば失職して、あちこちの食客となっていたり叔母さんの針仕事の内職で食べていたりというわけで、最後の職場が甲野眼科医院の使用人の取り締まりという役でした。二人とも子供のいない気楽さで何処へでも身軽に出て行くので、江崎のおまきが亡くなった、さあ叔父さん夫妻で監督に来て下さい、古山のおさだが亡くなった、さあ叔母さん来て下さい、と言った調子でピンチヒッターとして大変重宝な存在でした。どこに行ってもイギリス時代やハワイ時代に身に着いた西欧風の生活様式を失わず、震災で焼け出されて大塚の家に来た時も朝はトーストかオートミル、セロリとチーズを食べるなどと言う食生活で当時の私達の眼を丸くさせたものでした。貧乏でも生活を楽しむ事を知っていた、当時の日本人には珍しい存在でしたが、あまり呑気で行き当たりばったりの生活ぶりは太郎乙兄に心配も迷惑もかけたでしょう。叔父さんが亡くなってからたよ大叔母はずっと半二の食客となりましたが、大のチャップリンびいきで、よく浅草の映画館に出掛けて居ました。誘えば音楽会にでも気軽について行き、若い者とも話が合うので円交仲間にはモダンババァで通っていました。

« 乙骨家の人々 5 | トップページ | 農耕と園藝 3月号 »

コメント

斧田さんばどさん御免なさい!(打ち込みながら読んでいるのがバレました。とほほ)これでチンチロが判りました。でも、これを読んで、ほっとしました。乙骨家の系図があまりにも見事で、という意味はどの人もどの人も仕事に名前を残した偉大な教育者だったり研究者だったりするわけです。そうしますと九州の馬の骨としては「ひく」んですよね。やれやれよかったよかった。ありがとう兼三さんおたよさん!モダンジジィ&ババァ、モジモバに乾杯。

疑問氷解でなにより。原文の間違いが気になるのでちょっと。「白骨御文」は蓮如上人の御作ですので。ちなみに、真宗内では親鸞さんは親鸞聖人、他の方は上人で、読みはどちらも「しょうにん」です。「白骨御文」は名文なので、宗教に関係なくでもお読みいただきたいです。

たしか白骨の御文というのは「あしたには紅顔ありて、ゆうべには白骨とかすといへどもどうのこうの」っていうのでありましょう。蓮如だったとは恐れ入り屋の鬼子母神。蓮如って妻が八人くらいもいて、子も三十人近くいるんだよね。そういうのって当時は「へいきへいき」だったんだろうかな。お武家と寺は一緒だったのか。五木寛之とかの「蓮如」読んでもそういうことまでは書いてないよね。笑

乙骨兼三

検索でみえてました。
もしやあなたは斧田?

読まれていたので、私も読みました。
斧田千晴、ばどさん、なつかしすぎ。

家中に結核患者を二人抱えて、育児もする。できますか。できません。
それをやったおとくさんはほんとうに豪い。
私の父方のそふは妻をなくしたあと、後添えに来て下さったひとが結核になり寝込まれてしまうと、離縁して、再度健康なひと、優しい祖母でした、にきてもらいました。
こう書けば、酷薄な気がしますが、当時は三所帯同居の大家族で、妻とはすなわち労力だったからでもあるでしょう。
時代とともにいろんなことがかわります。

アクセスをみていたら、おや。乙骨五郎検索でこちらへみえていた。
それをいくつかたどっていますと、ふしぎなことに、推理小説の中の登場人物として同姓同名のおつこつごろうさんがでています。まやゆたかのからす。↓1998年。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 乙骨家の人々 6:

« 乙骨家の人々 5 | トップページ | 農耕と園藝 3月号 »

最近のトラックバック

2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29