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2006年1月21日 (土)

乙骨太郎乙の精神世界 3

昨日書写した文章の後半です。なお、本来の文章は上下に分かれているわけではなく一本のまとまった随想文ですが、便宜的にふたつに分けて引用しております。

    乙骨太郎乙(下)   

       「人物万華鏡」より     嘉治隆一

長女牧子(乙骨太郎乙の長女。姫野注)は中島湘煙塾で樋口一葉や三宅花甫と同門で、信州飯田出身の江崎政忠に嫁し、九州大学理学部教授の故悌三博士その他を儲けた。さて、この敏の伯父太郎乙は、旧友や旧幕以来の知人たちに並み並みならず尊敬せられていたと見え、子供の名前をつけてくれと頼まれることがしばしばであったらしい。例えば英学者の外山正一は親友の一人であったが、その長男の命名を頼まれたとき、峯作(みねさく)と名付けた。政治学者の河津祐之の長男に暹(すすむ)、経済学者の田口卯吉の長男には文太と命名したのも彼であった。自家の長男には敦(とむ)、その下の男児たちには半二、三郎、五郎などと命名した。上田敏は順序からいえばこの従兄敦の次に生まれたわけである。そのころ、上田家にはまだ祖父友助(そのころは東作と名乗っていた)も、また父絅二も健在であったにもかかわらず、乞われるままに、伯父太郎乙が名付親となった。自家の長男の「敦」というのは、米書にあるアンクル・トムス・ケビンから採ってトムを敦とし、あつしとは呼ばせなかった。上田の甥には「敏」という名を付け、サトシなどとは呼ばせなかった。これはビンジャミン・フランクリンのビンを採ったものであった。そして、字の形も従兄弟二人の名前が似通うよう、作りに「文」の入った字をえらんだとか。また男の児はトンとかビンとか、ンの音が入って撥ねる読み方になるのが将来の飛躍を約束していて好いという話でもあった。幼い頃、乙骨家の次男の半二(後年知名の検事となる)を含めた三人をトン、ビン、ハンと並べて一緒に呼んだりしていたそうである。そして敏をいつも「敏公、敏公」と呼んでいたので、若き日の敏は「抜粋歌集」や「文集」に「敏行家集」と命名したりしていた。そういえば、太郎乙の末妹は吹田家に嫁したが、その長男、順助(後年独文学者)の名にも「ン」の撥音が入っていた。

 上に述べた通り、乙骨太郎乙は早く父を失った幼い日の田口卯吉を親代わりになって面倒を見た。その太郎乙の甥にあたる上田敏がやはり幼くして父を失ったのを田口卯吉が引き取って十年の長い間世話したのも、そんな旧縁があったからである。

    (定本上田敏全集・第五巻月報より)

[編者注]嘉治隆一(上田敏女婿。満鉄調査部を経てこれを書いたころは朝日新聞論説委員)

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コメント

昨日の文と今日の文を一気に読めば、どうみても上記の文のあたまにある「長女」は太郎乙の長女じゃなく父耐軒の長女だと思ってしまいますが、家系図で確かめると、牧子という娘で江崎家に嫁したのは太郎乙の娘「まき」以外に見当りません。耐軒も太郎乙も貧乏人の子沢山みたいにこどもが多い。耐軒という号は泣けます。すごく立派な教育者になった人が多いのも親の背を見て育ったからと思われます。

2の文章の後半です。
まきさんは樋口一葉とおなじ和歌の塾生でした。
たしか、はぎのや。萩舎。

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