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2006年1月20日 (金)

乙骨太郎乙の精神世界 2

国歌「君が代」発見の功労者である乙骨太郎乙の精神世界を訪ねる旅の初めに、前回は最晩年の七言律漢詩による太郎乙八十のおいわいの連句をそのまま引用しました。

現在の西洋重視の教育を受けている私たちの教養では、辞書にさえない漢字がどどっと押し寄せてきてたじたじとなるのですが、それでも軽佻浮薄な現代の対極にある明治初期のごつごつした時代精神を素手で扱わせてもらった感激が湧き起こります。意味とか読みとかはおいおい後から随いてくるものと信じ、先へ進みます。

では、次に嘉治隆一(上田敏女婿。元朝日論説委員)氏の筆による文章を引用します。

  乙骨太郎乙(上)

    「人物万華鏡」より    嘉治隆一

 上田敏は明治七年十月三十日、東京築地に生れ、大正五年七月九日、白金三光町で急逝した。祖父友助(または東作、号は汪斎)は幕末の外交官で、早く遣外使節の一人として渡欧し、後に新潟開港事務を主宰した人物である。その長女が敏の母孝子で、次女悌子(後に蘭医桂川甫純に嫁す)は明治四年に米国留学した五少女の最年長者であった。旧幕のころ、上田家は小石川の江戸川寄り金剛寺坂に住み、特に外国人との自由な往来を許されていた。そのため、俚人から「唐人の上田さん」と呼ばれ、娘たちはときどき国粋派から石をなげつけられたりしたことすらあった。

 父、絅二(けいじ)はこれも幕臣で、昌平校の儒官として、また、漢詩人として、そのころ知られていた耐軒乙骨彦四郎の次男に生れ、若くして遣外使節団に加わって渡欧している。耐軒には男子が三人あった。長は太郎乙(華陽)、英学者で漢学者、沼津兵学校の教官や駿府藩校英学主任などとして儕輩(同輩。姫野注)に重んぜられていたが、維新後は大蔵省翻訳局の教頭(局長は同じ英学者の尺振八であった。)として若き学徒の薫陶に努めたこともある。

 次弟は、絅二で、上田家に入り、開拓使、土木局、大蔵省などに出仕した。敏の実父である。末弟は兼三と称し、ハワイ移民や外務省領事館の公務に当っていた。太郎乙の方は、亡国の遺臣として遂に世に出ることなく、専ら旧幕臣の子弟の教育や指導に一生をささげた。経済学者にして史学者でもあった明治の独創的評論家、鼎軒田口卯吉博士などを幼時から我が子のように育てたのもこの意味がこもっていた。晩年、家族の者に述懐して、「絅二も兼三も西洋へ行ったが、俺等はとうとう外に行けずじまいだったよ」といったとの話を聞いている。(後半は次号へつづく。)

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ここと、もう一ページあります、
太郎乙の名前を冠した文章。

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