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2006年1月27日 (金)

無冠の男 4

 それからしばらくして、ある夜、熊二が弁天通を通ったところ、露店に手ぬぐいをかぶってすわっている少年が義弟によく似ている。近よってみると、はたして卯吉であった。

 熊二はおどろいていった。

「なぜこんなところに露店を出しているのだ。あなたは英語を学ぶつもりで横浜にきたのではないか」

 卯吉は答えた。

「でも、母も姉も夜なべに専心していますから、少しでも菓子代をかせいで帰りたいとおもって、飯岡さんにたのんで番をしているのです。露店の商売はおもしろいものですよ。つまらないものにゼニを出して行く人があります」

 このことばは、熊二の胸をつきさすようだった。しかし、心で泣いて、表面は平静をつくろった。

「風邪でも引くといけない。たいがいにしてお帰りなさい」

 これが田口鼎軒夜店番の一幕だ。飯岡はのちに牛鍋店をひらいた。このとき、

「いらっしゃい」

  と叫んでいた食客松本荘一郎は、のちに工学博士となる。卯吉は牛鍋の方とは関係なかったが、それは乙骨太郎乙といっしょに沼津へいったからである。

 徳川家の後嗣田安亀之助(家達iesato)は、遠江ほか数郡あわせて七〇万石の新城主となり駿府(静岡)にいった。

 このとき、乙骨太郎乙は無禄御供を選んで沼津にいき、藩立沼津兵学校の教官となった。

 この学校の目的は、陸軍士官の養成を表面に、徳川家康家臣を保護するにある。その頭取(校長)には西周(amane)が選ばれた。

西については、森鷗外が三六歳のときに書いた伝記がある。鷗外とおなじく石見国(島根県)津和野の出身で、文政一二年藩医の家に生まれた。沼津兵学校頭取となったとき数えの四○歳である。

 オランダ語、英語を学び、幕臣となって蕃所調所に入ったのが二九歳。文久二年(鴎外の生まれた年)から慶応元年まで三年間オランダに留学、ライデン大学で法学、哲学を学んだ。哲学上の著書、訳書もあるが、今日使われている「哲学」ということばは彼がつくったもの。

 明治元年一二月頭取就任。「校則を制定し、歩騎砲工の諸科ならびに衛生経理の二部を分ち、乗馬学校をおき、附するに予備小学校と病院とをもつてす。当時学校の職員は一等教授方四人(人名略、以下おなじ)、一等教授方並一人、二等教授方二人、三等教授方十五人、その他教授方手伝中、剣術に・・・体操に・・・調馬に・・・」という鷗外の文章から、兵学校の大体はわかる。乙骨太郎乙は二等教授方だった。

 田口卯吉は明治二年五月、乙骨につれられて沼津にいき、乙骨家から沼津小学校に通った。同級生に、三歳上の島田三郎がいた。

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コメント

哲学という言葉は西周が生み出したのか。すごいなあ。沼津駅前から史料館までバスに乗ったとき、まず「あまねロード」という通りをくぐりぬけたのでしたが、それは西周の家がその近くにあったからと聞いてます。また、沼津兵学校って何だろうかとよく分からなかったんですが、これを写してだいたいわかった。徳川家御家人救済施設でありつつ公に開かれてもいた。にしても、校長の呼び名が頭取です。お頭、と違わないです。

明治維新とフリーメーソンについて、最近あちこちで目にします。
西周はわが国で最初のメンバー加入者だったという。

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