無料ブログはココログ

« わがくには | トップページ | どつぼにはまる »

2006年1月13日 (金)

乙骨太郎乙の精神世界 1

以下に写すのは、筆者が昨年十月に静岡県沼津市明治史料館で戴いてきた貴重な史料の一つである。

1.乙骨太郎乙八十賀宴聯詩

太郎乙は晩年、旧幕臣風流の士と「昔社」という仲間を作り漢詩を楽しんだ。大正十年辛酉五月、牛込赤城神社のほとり、讀我書楼で太郎乙八十の賀を昔社同人相寄って祝い、席上聯句を寄せ書きした。(想像していた倍の幅の軸である。上下二段に全部で十三の句が寄せ書きされている。余白には同人による松の絵。かっこ内は史料館による注記。)

 漢詩の型「柏梁体(はくりょうたい)」、韻「庚」 

    訓み下し:松本杏花(「葛飾吟社」所属)

             

 松間開宴酒盈觥      華陽資業書(觥=牛の角製杯)

 松間に宴を開けば酒は觥(さかづき)に盈(み)ち

 拂々薫風和気生      建菴

 拂々(ふつふつ)たる薫風は和気を生ず

 當階紅薬映新晴      天葩(紅薬=紅芍薬)

 階(きざはし)に當(あた)る紅薬は新晴(しんせい)に映じ 

 繞簷雛燕多喜声      米峰(繞簷=軒ヲ巡ル)

 簷(のき)を繞(めぐ)る雛燕(すうえん)は喜声(きせい)多し

 赤城霞彩一抹横      聴泉(赤城=赤城神社、牛込)

 赤城は霞み、彩一抹(いろいちまつ)に横たはり

 眼前咫尺現蓬瀛      吹城(蓬瀛=蓬莱山、瀛洲)

 眼前の咫尺(しせき)に蓬瀛(ほうえい)を現す

 白髪黄袍仙骨清      香塘

 白髪の黄抱(おうほう)は仙骨清く

 絶代風流昔社盟      菊軒(絶代=比類ナキ)

 絶代の風流は昔社(せきしゃ)の盟 

 二世能博儒雅名      米雨

 二世能(よ)く儒雅(じゅが)の名を博し

 風月百年湖海情      長庚

 風月百年湖海(こかい)の情

 酣然高枕夢意平      淞雨

 酣然(かんぜん)として枕を高くし夢意(むい)平らかなり 

 行杯不用繊手擎      脊齋(繊手=女ノ手、擎=捧ル)

 杯(はい)を行(や)るに繊手(せんしゅ)の擎(けい)を用いず

 君家依舊慶福并      春石(君家=徳川家)

 君家は舊(もと)により慶福(けいふく)并(あわ)せたり

大正辛酉五月二十四日寿   

華陽乙骨先生八十賀聯句  岡崎壮 識(シルス)

補足:(乙骨家史料を簡略にまとめたもの)

乙骨太郎乙(天保十三年生大正十一年没享年八十一)は、蘭、英学者。父・乙骨耐軒は高名な儒学者であった。太郎乙は通称。名を盈(みつる)といい、華陽と号するのは沼津在住時代に花山の南に居住していたからという。耐軒の長男として江戸に生まれ、幼くして昌平黌に入り同校学試に甲科合格。(弟・絅二は上田家の養子となりその子が上田敏である。)太郎乙、長ずるに及んで自ら深く期するところあり、蘭学を学び、箕作麟祥(みつくりりんしょう)について英学を修める。万延元年藩の下級書記に始まり、元治元年には開成所教授手伝いから教授へ。慶応三年には外国奉行調役になる。

明治維新に際しては、恭順派ながら初めは強硬論を持し、あいともに徳川家のために薩長諸藩と戦うべしと主張したこともあったが、慶喜公に従い、彰義隊の鎮撫説得に努めた。家逹公駿府移封に伴って沼津へ来り、当地に創設された兵学校の二等教授となり英語を担当する。このとき二十七歳、(澤鑑之丞「海軍七十年史談」の伝える「君が代」を国歌にと進言する挿話はこのころのものということになる。姫野注)明治三年閏十月には一等教授になる。

明治四年兵学校が兵部省に移管すると一旦静岡学問所教授に転じた。そして、明治五年、大蔵省翻訳局は英語、経済学を教える学校を日本橋浜町に設置、太郎乙の親友で著名な英学者の尺振八を校長とする。同時に太郎乙も東京に移り、この学校の教授となる。当時の政府は新知識に乏しく、優遇されたことはいうまでもない。この学校には沼津兵学校出身者が多かった。明治十一年海軍省御用係りとなり、二十三年まで出仕。氏の真面目は蘭学の創唱者たるにあり、幕末より明治初期にかけての文化に貢献した。

俗称をめぐる挿話:

沼津在住時代、友と雷山へ散策す。すると山にて足踏み滑らし、谷へ転げ落ちたとき、口ずさんだ狂歌一首。

   ゴロゴロと雷山の麓まで落こつたらうオツトあぶない(乙骨太郎乙)

※上記補足は史料館資料からの引用(一部差し障りない程度に略)ですが、書き写していていくつか疑問をもちました。一つ目はもちろん、没年の確認です。資料には十一年とあり(二種のパンフにそうあった)、しかし、「マリオットの盲点」に書いたように愛媛の歌人片上雅仁先生指摘の吉川弘文館維新人名辞典記載の大正十年とするのが正しいのか。これは要確認です。(遺族のかたに確認。大正十一年が正しいそうです。)

いまひとつは、乙骨太郎乙の真面目は蘭学の創唱者たるにあり・・これは違うと思う。彼が英語を学ぶ前に蘭学を学んだのは確かなようだが、先生として教えたのは英語だけだからです。ともかく、私が思う太郎乙の真面目は、国歌君が代の発見だと思います。

« わがくには | トップページ | どつぼにはまる »

コメント

柏梁体の漢詩は2句ずつペアになっているのですね。なげる、うける、なげる、うける。さいご13句目、あるじ徳川家はいまもおかわりなく安泰であることだ・・と予祝するとこまで、みごとに息が合ってるとおもいました。連歌は漢詩からきたというのはなるほどと思いました。

ここ、初期のものです。
乙骨太郎乙にまっすぐ。
沼津の明治資料館の写真もあるはずです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 乙骨太郎乙の精神世界 1:

« わがくには | トップページ | どつぼにはまる »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31