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2006年1月31日 (火)

斧田千晴の本

「大根注意報発令中!」は陽のオノダ、「ひんやり・さ・せ・て」は陰のオノダ。

じつは、彼女あての年賀状に「二冊とも軽すぎる。いつかの詩にあったような真正面むいた重さがどこかに必要なのでは・・・」と、正月早々滅相もない感想を書いてしまった。

ずっと、そのことが気になっていて、ことにお寺に報恩講で参ったりすると思い出してしまい、寺に生まれるとはどういうことなんだろうなんてことまで考えていた。うちのお寺は四百年つづく古いお寺であるが、ご院家さまの後継ぎにはまだお嫁さんがこない。立派なお坊様なので檀家のものは心配はしていないが、それでもお寺の激務を知っているからそれなりに案じている。お寺に生まれるって大変な苦労なのだ。

「大根!」に、さすがにお寺の娘が書いたと思わせる一編がある。「うなぎご飯」という題の話なのだが、他の話があまりにもえげつない印象のものが多いためにとても発光してみえる連句的効果の一編である。しみじみとして深い余情を残す。「クモとゴキブリ」もきれいなはなしだ。このようなお話が書ける人が、なぜまたあのように俗っぽいだけの話を紡がねばおれぬのか、人間は不可解だ。以前非常にこころ洗われるような彼女の詩を読み、感動したことがあった。とても同じ人の作品とは思えない。また、山口のやはりお寺の子息である木戸葉三氏と三人で短い連句を二巻巻いたときも、要所で視野の広い句をポーンと出してくれた。木戸氏は抽象的な詩を、オノダ氏は足が地に着いた視点の句を出してくださった。そういうありがたい縁のことなどが自然と思い出されて、この読みようによってはひどく思えるかもしれぬ一文を草せずにはおれなかった。

斧田千晴の本。

斧田千晴の本。

由緒正しきお寺の娘オノダ(特技こめだわらはこび)が書いたちょっとエッチでちょっとみょーな味わいの捨てたらバチがあたるハートウォーミングショートショート集二冊。大根注意報発令中!ひんやり・さ・せ・て。日本文学館、ノベル倶楽部刊。

美少女着替え

ってのを、チュウボウの次男がひそかにのぞいていた。(こんなこと書いたらおこるだろうな。)それが、とてもかわいいんだ。ほんとにわらっちゃう。

むすこがふたり、それとたんしんふにんの親父がひとりいますと、いくさきざきでおおっ!とおどろくものを発見することがあります。まえは、いちいち目がつりあがってもいたのですが、最近はようやくなれて、というか馴らされて、なーんも感じなくなってきた。こんなものかよ。

2006年1月29日 (日)

村神事

マフラーを解きつつ始む村神事   澄 たから(すみ たから)

作者と同じ村の住民として、書き残しておきたいです。

全部で四十戸に満たないちいさな村ですが、みんなで大切にしているお宮があります。隣組はみっつ、その頭三軒で月に二度の掃除や年間行事のお世話をいたします。

この句は時期からいって一年最後の「おざ」の神事を詠んだものと思われます。例年師走の第一日曜の朝に執り行われる神事で、近在の出前の宮司が見えて祝詞奏上をし、玉ぐしをみんなで神前にあげて、あとは一緒になおらいをするという素朴な民俗行事です。あまり深く考えたこともありませんでしたが、新穀をたくさん上げて実りを感謝するにいなめ祭です。記録では江戸時代からあります。(寛文十年。これは祭りの記載ではなくお宮の記載があっただけですが)

でも書きたいのはそういう知識じゃなくて、夫の懐かしい思い出です。

結婚すると、村では村の衆にお披露目する宴をはらねばなりませんでした。これは農村だったら、どこでも昔はそうだったはずです。いまはだいぶちがってきてますが。で、隣組の人たちを招いてお祝いをしました。お酒が体質的に飲めない夫はそれでもなんとか座をこなし、次に長老の家にあいさつにでかけました。夫はマフラーを巻いていました。正座して長老に頭をさげてよろしくと言っても、マフラーを取り忘れています。すると長老が夫をとがめました。失礼じゃないかと。すぐさまマフラーをとり、あやまった夫をなつかしく思い出します。いまにして思えば、あれからずっと夫は私と結婚したばかりに田舎のもつある種の厳格な「式」にむちをふるわれてきたような気がします。(マフラーの一件はそれ以前の常識かもしれませんが)

さいきん、何かの折に夫がぽつっと言いました。あのときマフラーのことを言ってくれた長老には感謝している、と。そのときは腹がたったけど、何も知らなくて横着だったよと。

町の人間と田舎の人間はそもそもぜんぜんちがいます。

今になってホリエモンはいなかものだといって馬鹿にしますが、ではテレビは何を映したでしょうか。茶畑と高速道路とさみしい彼の家だけです。いなかには何もないときめつけて、ばかにして、なにも映さなかったし、みようともしなかった。たんぼやさびれはてたシャッター通りとよばれる商店街やは映さない。だからこそ彼のような人間が生れたのに。

2006年1月28日 (土)

樹の俳句

月刊俳句誌「樹(たちき)」二月号より

課題句「解」  太田一明選

特選 

妻解かれ母を解かれて聖樹かな  山下整子(八女)

解凍の途中ごまめが喋り出す  小森清次(新潟)

図鑑から解き放たれし冬の蝶  宮川三保子(室蘭)

佳作

解凍の鯛が鰭ふる年の暮  佐藤綾子(大分)

冬樹に鳥確かに解熱はじまれり  堀井芙紗子(大分)

難解な人間枯野で解剖す  竹原とき江(熊本)

辺り見ながら小心者の雪解ける   姫野恭子(八女)

解体を決めし家にも松飾り   依田しず子(東京)

解かれざる縁となりて寒牡丹   魚返サツ子(大分)

束縛を解かれ氷柱の光り初む  井上ちかえ(筑豊)

宅配の固き紐解く冬菫  伊藤キクエ(筑豊)

マフラーを解きつつ始む村神事  澄 たから(八女)

誤解という美しき文字寒椿  林 照代(下関)

選者吟

結び目を解かれ吹雪となりにけり  太田一明(戸畑)

主宰吟

解熱後の寒満月の洗張り   瀧 春樹(大分)

 三月号課題「薬」、四月号「参」。二月二十日締切。

枯野

枯野

2006年1月27日 (金)

儒教と冬ソナ

 このココログにはまだいろいろ分からないところがある。でも、自動的にまるで歳時記の分類みたいに項目ごとの編集が右のサイドバーによってなされるのはすばらしい。あとは、マリオットの盲点のassamさんみたいに「別区」を持ちたいです。岩戸山古墳の別区みたいに。いろんな事情で緊張感が続かないとき途中で他の話題をなげこむと、研究素材をうっちゃるみたいで失礼なかんじがします。私としては生身だし、どっちも大切なので。以上「堕ちたるは」を涙をのんで切り捨てたいいわけに一筆しました。

 さて、乙骨太郎乙の「無冠の男」からの引用は以上ですが、読んで写して小島直記の調べっぷりとまるで講談師みたいな語りっぷりにうならされます。ノンフィクションの歴史ものは事実の羅列だけじゃつまんないし、時代の躍動感を、人物群像とその史的な意味に対する毅然とした批評眼とをもって書かれています。読者を飽かせることなく引き付ける力わざを教えてもらいました。

 「無冠の男」の一人でもある太郎乙を調べるには、まず、その父から見てみなければなりません。太郎乙の父、乙骨耐軒彦四郎は幕末の官学派詩人(詩集こそないものの名のある漢詩人だった)で儒学者でした。その資料「乙骨耐軒」坂口筑母・著から、ただ一行ことに印象的な耐軒の人物を言い当てているくだりを抜き出しますと、

 「人は彼を評して狂狷の流れといい、純儒の経を枉ないという。」 

 このことばがまっすぐにわたしの心臓につきささります。意味はよくわからないんです。でも、言葉のひびきと緊迫感とが、時代そのものの迫力を持って迫ってくるのです。キョウケンノナガレ。ジュンジュノケイヲマゲナイ。

 とたんに「冬のソナタ」が浮かんだんですから、たいしたものです。儒教を知らないわたしたち現代の日本女性でも、無意識にしっているものがあるということを「現代俳句と女たちー張形としての俳句」を書き進めながら、だんだんと認識させられつつあります。近年の韓流ブームはまさにその「きづき」なのでありましょう。

 ということに気づけば、わたしがやみくもに沼津くんだりまで行かされた衝動も、ゆえなきことではありません。歴史的必然に駆られてのことだったのです。

無冠の男 4

 それからしばらくして、ある夜、熊二が弁天通を通ったところ、露店に手ぬぐいをかぶってすわっている少年が義弟によく似ている。近よってみると、はたして卯吉であった。

 熊二はおどろいていった。

「なぜこんなところに露店を出しているのだ。あなたは英語を学ぶつもりで横浜にきたのではないか」

 卯吉は答えた。

「でも、母も姉も夜なべに専心していますから、少しでも菓子代をかせいで帰りたいとおもって、飯岡さんにたのんで番をしているのです。露店の商売はおもしろいものですよ。つまらないものにゼニを出して行く人があります」

 このことばは、熊二の胸をつきさすようだった。しかし、心で泣いて、表面は平静をつくろった。

「風邪でも引くといけない。たいがいにしてお帰りなさい」

 これが田口鼎軒夜店番の一幕だ。飯岡はのちに牛鍋店をひらいた。このとき、

「いらっしゃい」

  と叫んでいた食客松本荘一郎は、のちに工学博士となる。卯吉は牛鍋の方とは関係なかったが、それは乙骨太郎乙といっしょに沼津へいったからである。

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2006年1月26日 (木)

無冠の男 3

(昨日よりのつづき)

 田口卯吉の姉婿木村熊二は上野彰義隊に関係したため、官軍の追及をのがれて京浜間を奔走し、家計を見る暇がない。

 妻鐙子、長男祐吉、そして田口家の祖母可都、母町子、卯吉の五人は江戸をのがれて横浜の程ヶ谷に仮の住まいを見つけた。

 食うために何かしなければならぬ、祖母は、裁縫の賃仕事をはじめた。しかし、動乱期に着物を新調するものもなく、注文は少ない。

 町子は鐙子とともに、商売をしてみることにした。近郊の農家をまわって鶏卵を買いあつめ、外人に売ろうとしたが、足もとを見られて買いたたかれ、失敗だった。

 タバコの小売りもしてみた。利益が少なくて永つづきしない。大福餅をつくり、夜、太田橋のほとりで売ってみたが、これも損をした。

 卯吉は乙骨太郎乙の紹介で、飯岡金次という人物の食客となった。飯岡は幕臣だったが、官軍に抵抗して失敗、横浜にかくれて小物問屋を太田町にひらき、同時に弁天通に古道具屋の夜店を出していた。

 卯吉ははじめ、米人宣教師や外人商館などに使われて英語を学ぶつもりであった。ある日、義兄熊二が卯吉に会うと、

「兄さん、商館では英語は学べません。主人はわからない日本語でモノを命じますから、こまります」という。

「何といったの?」

「あなた家あります、私まわろうまわろう、よろしい、といいますから、二度ばかり問い返したらたいそう腹を立てました」

「毛唐のことばはちょっと判断しなければわからない。それは、あなたは家があるからお帰りなさい、私は散歩してあとで帰るというのだろう。明日そういうたら、店をとじてお帰りなさい」

 その翌日、義兄のいうとおりにしたところ、外人は満足した。(つづく)

 

2006年1月25日 (水)

無冠の男 2

「無冠の男」上巻より太郎乙登場箇所の引用をいたします。長くなるため前段階は概略の引用です。

「第三章 日本最初の経済論争」 鼎軒田口卯吉ーより。

 江戸末期の横浜で日本資本主義は黎明期を迎える。安政五年の日米修好通商条約締結の一年後、ヨコハマ開港。外事や関税事務を扱う神奈川運上所(のちの横浜税関)や外人居留地ができ、関内とよばれる。少年だった三井物産初代社長益田孝やのちに二・二六事件で暗殺される高橋是清などが関内でそれぞれの苦労をしていたころに、弁天通で外人客めあての古道具屋の夜店番をしていたのが、のちに日本最初の経済評論家となって論敵犬養毅と論争することになる少年田口卯吉だった。卯吉(号を鼎軒teiken)は江戸目白台徒歩屋敷の徳川御家人の家に生れる。富裕だった家を祖父が蕩尽して死ぬと、一人娘であった卯吉の母が一三歳で婿をとらされた。だが次々に不幸が襲う。生まれた子供二人に続いて婿が死に、後夫との間に一子卯吉を得るが後夫も若くして病死。赤貧洗うがごとき暮らしの中で卯吉は芯の強い少年に育っていったが、それは母の「強情我慢」をはりとおす教育の賜物でもあった。(以上概略引用。)

 徳川慶喜の大政奉還で禄を失った家臣団は、朝臣(新政府出仕)となるか、帰農(商)するか、無禄で静岡へ移住するか、の三つの道の選択にせまられた。ー中略ー

 さて、田口卯吉の選択である。新政府につかえようとおもっても、まだ何の経歴もない一三歳の小僧っ子では先方がお呼びでない。また、帰農しようにも田畑はなく、農耕の道を知らず、帰商しようにも、ソロバン勘定などいっさい知らない。祖母と母と扶養家族を二人かかえて、当然卯吉は途方にくれたが、このとき彼を助けてくれたのが乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)という珍しい名前の人だ。その縁をつくったのが、卯吉の姉鐙子(とうこ)の夫木村熊二だった。

 木村は但馬出石藩の儒学者桜井家の出だ。九歳のとき、江戸組同心木村琶山の養子となった。一五歳、昌平黌(昌平坂学問所)に学び、田口卯吉の曽祖父佐藤一斎の教えをうけ、歩兵局徒歩目付となっていたとき、兄と河田廸斎の世話で田口鐙子と結婚した。文久三年のことで、熊二一八歳、鐙子一五歳、卯吉八歳である。

 新婚五ヵ月後に熊二は長州征伐軍に加わり、別居二年、ようやく江戸にもどって、下谷生駒前に家庭をもった。その隣に住んでいたのが乙骨太郎乙である。

 太郎乙(華陽)は、昌平黌教授、漢詩人の耐軒乙骨彦四郎の長男で、英学者、漢学者だった。その弟絅二は維新後、上田家に養子にいったが、その息子が詩人上田敏。その名づけ親が乙骨太郎乙で、「ビンジアミン・フランクリンのビンから採ったもの」と嘉治隆一は書いている。(『人物万華鏡』)。

 たまたま義兄のこの家に寄寓して、卯吉は乙骨に知られた。この物語で実証するように、人間の運命は「出会い」によって決まる。

2006年1月24日 (火)

無冠の男 1

元旦に引用しようとした憲政の神様尾崎行雄の言葉に、先日また八女老人会誌でも出合いました。引用から逃れられないみたいです。

  On  life's  stage,  always  be  prepared  for  the  future.

人生の本舞台は常に将来に在り。意味するところは「昨日までの仕事は、すべて今日以後の準備行動にすぎない。人間たるものは、そう心得ねばならぬ。」(小島直記)

昭和八年尾崎行雄75歳、大変な失意に見舞われたとき得た言葉だそうです。尾崎は96歳まで生きて逗子で亡くなりました。披露山公園には直筆の石碑が残っているそうです。「今日までの失敗は、今後成功するための試練だ、準備なのだ。人間はいくら年をとっても、昨日までの経歴は学校でいうなら予備門で、今日以後の修行が本当の修行なのだ。死ぬまでその気でやるべきだ」と、かれは悟ったそうです。しかも「この思想は私の思想中の最も貴重なもので、これが浮かんだだけでも私は生れ甲斐があったと思っている」(自伝)と記し、老躯をひっさげて敢然と軍国主義、ファシズムに挑戦しました。小島直記の「無冠の男」上巻には、そんな尾崎の若き日の未熟な無軌道ぶりも恬然と書かれており、なんだかとても鼓舞されます。同じ郷土の若き起業家堀江貴文氏が失墜した今、この言葉を真っ先に彼と彼を支えた人たちへ贈りたいと思いました。

君が代を国歌として発見した(発掘というより発見だと感じます)乙骨太郎乙を調べにやみくもに静岡の沼津へ行って、そこでばったり出会ったのが自分と同郷の小島直記著「無冠の男」だったことに沼津から帰って気づき、灯台元暗しの感に打たれました。ここに描かれた乙骨太郎乙の姿を、数日にわたって引用したいと思います。

2006年1月22日 (日)

八女老連広報第38号

毎年一月に発行される市の老人クラブ連合会誌を楽しく読んでいます。

八女に生きてこられたお年寄りの方々が書かれた地元の特産品みたいな文章に、自分の知らなかった土地のことや歴史のこと、人情のことなど教えられることがたくさんあるからです。文章で多いのは、戦時中の辛かった記憶をつづったものですが、それは割合男性の従軍した方々にみられ、女性は戦前の(戦後派にはふしぎに思える文体です)幼少のころの八女の慣習や地形など克明に書いてあり感慨深いのです。

文芸のところに平成十三年ぼんぼり祭り協賛連句会に飛び入りで参加していただいた「やまなみ短歌会」所属歌人のお名前を幾人か見出しもして、うれしいです。

  麦うれて五月の風のさはやかさハミングしてゐるオールド・ブラック・ジョー                                       (大坪キヌ子)

  陽に透きて白く光れる逆まつげ亡母に抜きゐし秋の縁側(桐明フミ子)

  心臓は「ハウルの動く城」のごとく紅き血を吐き体が動く(江頭六郎)

  七年の姑の看取りがわが生の盛んなりしと思うときあり(大坪雪枝)                                    

  稲作の役目終えたる秋の水ゆたかな音に小溝を走る(同)

  目覚めしより予定組みたる年の瀬の仕事自づと嫁とは違ふ(熊本美和子)

  しなやかな春の愛撫を想ふ日よ日本列島は雪皺手をさする(同) 

  母の忌や月に寄り添う星ひとつ(沢田桔梗)

  神池の鯉の吐き出す花筏 (高田紀代子)

  雨待って待って大根の種を蒔く(樋口さかえ)

  釣瓶落し畑に白煙父の影(東 日出雄)

  亡き祖母を慕ふ吾も祖母秋深む(浜田フジ子)

  暁の星のあるうち水盗む(栗原三千人)

  番付の上にズラリと出稼ぎさん(山口幸敏)  

  

農家に住むこと

農家に住むこと

農家に住むこと

1月の蠅取紙の淑気かな。軒低き暮らしに慣れて嫁が君。雪の夜の玄米蔵のほのあかり。

2006年1月21日 (土)

乙骨太郎乙の精神世界 3

昨日書写した文章の後半です。なお、本来の文章は上下に分かれているわけではなく一本のまとまった随想文ですが、便宜的にふたつに分けて引用しております。

    乙骨太郎乙(下)   

       「人物万華鏡」より     嘉治隆一

長女牧子(乙骨太郎乙の長女。姫野注)は中島湘煙塾で樋口一葉や三宅花甫と同門で、信州飯田出身の江崎政忠に嫁し、九州大学理学部教授の故悌三博士その他を儲けた。さて、この敏の伯父太郎乙は、旧友や旧幕以来の知人たちに並み並みならず尊敬せられていたと見え、子供の名前をつけてくれと頼まれることがしばしばであったらしい。例えば英学者の外山正一は親友の一人であったが、その長男の命名を頼まれたとき、峯作(みねさく)と名付けた。政治学者の河津祐之の長男に暹(すすむ)、経済学者の田口卯吉の長男には文太と命名したのも彼であった。自家の長男には敦(とむ)、その下の男児たちには半二、三郎、五郎などと命名した。上田敏は順序からいえばこの従兄敦の次に生まれたわけである。そのころ、上田家にはまだ祖父友助(そのころは東作と名乗っていた)も、また父絅二も健在であったにもかかわらず、乞われるままに、伯父太郎乙が名付親となった。自家の長男の「敦」というのは、米書にあるアンクル・トムス・ケビンから採ってトムを敦とし、あつしとは呼ばせなかった。上田の甥には「敏」という名を付け、サトシなどとは呼ばせなかった。これはビンジャミン・フランクリンのビンを採ったものであった。そして、字の形も従兄弟二人の名前が似通うよう、作りに「文」の入った字をえらんだとか。また男の児はトンとかビンとか、ンの音が入って撥ねる読み方になるのが将来の飛躍を約束していて好いという話でもあった。幼い頃、乙骨家の次男の半二(後年知名の検事となる)を含めた三人をトン、ビン、ハンと並べて一緒に呼んだりしていたそうである。そして敏をいつも「敏公、敏公」と呼んでいたので、若き日の敏は「抜粋歌集」や「文集」に「敏行家集」と命名したりしていた。そういえば、太郎乙の末妹は吹田家に嫁したが、その長男、順助(後年独文学者)の名にも「ン」の撥音が入っていた。

 上に述べた通り、乙骨太郎乙は早く父を失った幼い日の田口卯吉を親代わりになって面倒を見た。その太郎乙の甥にあたる上田敏がやはり幼くして父を失ったのを田口卯吉が引き取って十年の長い間世話したのも、そんな旧縁があったからである。

    (定本上田敏全集・第五巻月報より)

[編者注]嘉治隆一(上田敏女婿。満鉄調査部を経てこれを書いたころは朝日新聞論説委員)

2006年1月20日 (金)

乙骨太郎乙の精神世界 2

国歌「君が代」発見の功労者である乙骨太郎乙の精神世界を訪ねる旅の初めに、前回は最晩年の七言律漢詩による太郎乙八十のおいわいの連句をそのまま引用しました。

現在の西洋重視の教育を受けている私たちの教養では、辞書にさえない漢字がどどっと押し寄せてきてたじたじとなるのですが、それでも軽佻浮薄な現代の対極にある明治初期のごつごつした時代精神を素手で扱わせてもらった感激が湧き起こります。意味とか読みとかはおいおい後から随いてくるものと信じ、先へ進みます。

では、次に嘉治隆一(上田敏女婿。元朝日論説委員)氏の筆による文章を引用します。

  乙骨太郎乙(上)

    「人物万華鏡」より    嘉治隆一

 上田敏は明治七年十月三十日、東京築地に生れ、大正五年七月九日、白金三光町で急逝した。祖父友助(または東作、号は汪斎)は幕末の外交官で、早く遣外使節の一人として渡欧し、後に新潟開港事務を主宰した人物である。その長女が敏の母孝子で、次女悌子(後に蘭医桂川甫純に嫁す)は明治四年に米国留学した五少女の最年長者であった。旧幕のころ、上田家は小石川の江戸川寄り金剛寺坂に住み、特に外国人との自由な往来を許されていた。そのため、俚人から「唐人の上田さん」と呼ばれ、娘たちはときどき国粋派から石をなげつけられたりしたことすらあった。

 父、絅二(けいじ)はこれも幕臣で、昌平校の儒官として、また、漢詩人として、そのころ知られていた耐軒乙骨彦四郎の次男に生れ、若くして遣外使節団に加わって渡欧している。耐軒には男子が三人あった。長は太郎乙(華陽)、英学者で漢学者、沼津兵学校の教官や駿府藩校英学主任などとして儕輩(同輩。姫野注)に重んぜられていたが、維新後は大蔵省翻訳局の教頭(局長は同じ英学者の尺振八であった。)として若き学徒の薫陶に努めたこともある。

 次弟は、絅二で、上田家に入り、開拓使、土木局、大蔵省などに出仕した。敏の実父である。末弟は兼三と称し、ハワイ移民や外務省領事館の公務に当っていた。太郎乙の方は、亡国の遺臣として遂に世に出ることなく、専ら旧幕臣の子弟の教育や指導に一生をささげた。経済学者にして史学者でもあった明治の独創的評論家、鼎軒田口卯吉博士などを幼時から我が子のように育てたのもこの意味がこもっていた。晩年、家族の者に述懐して、「絅二も兼三も西洋へ行ったが、俺等はとうとう外に行けずじまいだったよ」といったとの話を聞いている。(後半は次号へつづく。)

2006年1月19日 (木)

坊ちゃんナショナリズム

蝋梅がまったく咲かない。十二月には咲く花なのに。たぶんもう今年は咲かぬつもりだろう。それだけ寒さがきびしいのだ。井戸水をくみ上げるポンプもおかしくなり、修理をした。地下のことは見えないけれど、寒いといろいろ機械にも大変なことがあるんだろう。

ホリエモンショック一色のテレビに倦み新聞をひらく。齋藤学「坊ちゃんナショナリズム」が目を射る。団塊ジュニア世代に静かに蔓延しているらしい。あるものは戦争時代を懐かしみ祖父の軍服や遺品を集め、またあるものはヒトラー「ある闘争」を愛読する。心配になって親は齋藤さんみたいなお医者さんに相談し、齋藤さんはそれを書く。

しかしだ。どこの世界にただのほほんとみすぎよすぎだけをしていく若者がいようか。こういう若者こそが正常なんじゃないだろうか。親の価値観に真っ向から反対し何か全く別の地平をさがす。ニートのおたくのフリーターのといわれるけども青年はやはり青年なのだ。新しい時代をひらく志が胸の奥深く燃えているのだと肯定的に捉えたい。

長男が和白図書館から借りてきた『「僕の見た「大日本帝国」』西牟田靖著はその志が実をむすんだ素晴らしい本である。副題「教わらなかった歴史と出会う旅」をもつこの本は明治半ばから敗戦まで日本の占領下にあった国々・・サハリンの南半分、台湾、韓国、北朝鮮、ミクロネシア(旧南洋群島)、中国東北部(旧満州)・・に残る日本の痕跡を四年に亘って自分の足と目で確かめた記録だ。沢山の写真が読むものを現場に立たせる。著者は1970年大阪生まれ団塊ジュニアである。情報センター出版局刊。2005年2月25日初版。

2006年1月18日 (水)

今日中に「薬」という字をいれて何句か俳句を詠まなきゃいけない。

くすり。薬剤師。芍薬は季節がちがいすぎ。当帰芍薬散は血の道のくすりだよね。薬という字の入った季語は「薬喰」があるけど俳諧臭い。こんなときは、どうする。

  革臭き革ジャンとゐて薬喰ひ

  薬袋に春の字のある懶さよ

  薬袋に仕舞ひぬ真冬の星一顆

  薬師寺や枯木響もす無数の秀 

  医師の子と薬屋の子と日向ぼこ

  冬麗のふつふつ滾る薬缶かな(喘息薬キササゲを煎じる)

六句できた。自由に雑念を楽しめるのは句をよむときだけだ。句をよむことは恋の成就に似ている。

薬袋と書いてやくたいって読むんだけど、こんな言い方は病院関係者じゃなきゃしないだろうか。若かりしころ病院に勤めたことがある。奇篤な患者さんがいて、必ず薬袋を持参された。何度も何度も使用に耐えたその人の薬袋。この間まねして同じことをしてみたら、「あ。いいですよ。あたらしくつくりますから」と即座に窓口の人に断られた。さみしいね。

  

 

  

    

  

  

 

2006年1月17日 (火)

かぜと注射

まよなかに息子がふとんにもぐりこんできた。からだが火のようにあつい。すぐタオルで冷やす。昨夜はごはんも食べてたし夜食まで兄と食べてたのに、おかしいな。かぜだろうかインフルエンザかもしれない、はやっているらしいから。とりあえず様子をみる。

去年は受験があるから予防接種を受けたがことしは息子は受けていない。私は去年お宮掃除を一年間一緒にした近所のおばあさんに頼まれ予防注射に連れていくついでに受けたおかげで、まだひどいかぜはひいてない。(インフルエンザ予防接種の一番安い病院を聞いて、まずそこへ行きましたが完売でしたので次の医院で受けました。おばあさん1700円わたし3000円。ちなみに安いところは2000円って。なんだろこのちがいは。)

とうとう学校をやすみ、ねている。これまでかぜからぜんそくへと進んで何日も学校を休んでいたけど、さすがにからだが出来てきたのか熱性けいれんもおきないしぜんそくにもならない。サッカーのおかげだとおもう。あしたは学校に行けますように。

2006年1月16日 (月)

黌という字

文章の引用をすると、書いたそのひとに息を合わせることができる。たましいのチューニングができる。

きょう、雨は降るし、終日家にこもって「アジア主義」という古い本のなかに見つけた岡倉天心の「東洋の理想」を読んだ。ずいぶん前に古本屋で買ってた本で、竹内好編の霊的な本である。去年「日本詩の押韻」という九鬼周造の論文をよみ、しばらく九鬼周造にはまっていた。おもしろいし感性的に痛いところがあって、理屈っぽいのに泣けるのである。論文で泣くというのは変だが。ことに随筆集で見つけた母の思い出を九鬼が綴ったものは、母と岡倉天心の情の交わしあいをこどもの視点から捉えて出色であった。こころがふるえた。そういうわけで、わたしは岡倉天心を九鬼を経てあらたに発見し、その目でよむ「東洋の理想」はこころに直にひびいた。

引用しようとしたのは、でも、そうじゃなくて小島直記の「無冠の男」である。上巻三章の鼎軒田口卯吉に出てくる乙骨太郎乙をまるごと引用しようとかなり長い時間奮闘したが、終わり近くで、どうしたことか飛んでしまった。

あーあ。でも、一つ残ったものがある。「黌」=コウの字である。昌平黌のこうの字。この難しい字は、下に黄色が入っている。なぜだろう。すぐ浮かぶのは、鍼灸院に貼ってあった人体ほか自然の五行表である。漢字字典をひいたわけじゃないが、この黄は五行の黄、土性の気を有する字だろう。学ぶときはまだ土のなかにある芽とおなじだ。だから黌は土性の黄なんじゃないかしら。

沼津行

沼津行

沼津行

沼津行

明治史料館、黄昏の沼津市街、狩野川

2006年1月15日 (日)

司馬遼太郎が考えたこと

わたしが「君が代」を乙骨太郎乙を考えることで調べてみようと思った、そのみなもとにある文章です。むかし読んだのは中公文庫版だったんですが、マリオットの盲点のassamさんと同じ新潮文庫四巻から引用します。なお、筆者の所属連句誌「れぎおん」(兵庫県西宮市・前田圭衛子編集発行)冬号に、たまたま東京の川野蓼艸氏が君が代を書いておられます。それはそれは迫力ある君が代論で、私などが思う戦争の浪漫的感傷はふっとび、現実のひたすら醜く浅ましい戦争を生なましい記憶からそのまま呼び起こしてありました。まるでそれは、富士山です。では、司馬の名文のラスト九行を写します。

「歴史の不思議さーある元旦儀式の歌」   司馬遼太郎

とにかく筆者にとって原田宗助のはなしがおかしかったのは、戊辰戦争の砲煙がやっとしずまって新都へ諸藩兵があつまったころ、つまり川村純義にとって多忙なとき、そういう相談をもちかけられて「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことがあるか」と下僚を一かつし、その一かつからこの歌が起源を発しているということである。いまひとつおかしいのはこの歌がもとはといえば徳川家の大奥の儀式の歌であり、旧幕臣である乙骨太郎乙がそれから発想して提案したのに「君が代」起源説の通説では大山巌などが大きく正面に登場して、徳川大奥の元旦儀式や乙骨という要素がまったく消されてしまっているということである。このことは、歴史というものの奇妙さについて、きわめて暗示的な課題をふくんでいるようにおもわれる。(文章の初出は昭和44年正月六日、毎日新聞)

2006年1月14日 (土)

どつぼにはまる

あんまりいい言葉じゃないな。でもほんとにどつぼに嵌ってしまったのだ。

母と叔母を軽自動車に乗せて雨の中、鍼灸院へ急いでいた。院の裏手には川が流れていたことをふと思い出し、一度も通ったことのない小道へと入る。道のすぐそばに川が流れており、この川は鍼灸院へと続く川と思ったからだ。なのに軽一台通るのがやっとのその道は、途中で蛇行し、ほんのちょっと狭くなってもいた。どつぼにはまってしまったことに気づいたのは、引き返せないとこまで来てからだった。

退けないなら、前に進むしかない。左ミラーをブロックで擦って、とにかくすすむ。先はTの字の右の出っ張りのとこがコンクリの細い橋で、左はやはり細い道が申し訳なさげに続いてる。右横は川、左はブロック塀。ううう。

じぶんでじぶんをののしりながら、曲がれそうもない狭い直角カーブを曲がることにした。ていうかそれしかない。少しハンドルを切ってはドアを開け川に落ちないか、ブロックにぶつからないか、タイヤを確かめ地面を確かめ車を動かす。ところが、だんだんどつぼにはまっていくのよねこれが。

JAFを呼ぼうか。でもこういう時に限って番号が出てこない。主人に電話しても遠い、父もいない。時間だけがすぎていき、母たちが言った。元田先生に電話してん。ということで、鍼灸師の先生にかくかくしかじかで遅くなりますと電話すると、はいはいわかりましたすぐ行きます、と言ってJAFみたいに駆けつけてくださった。そして、左のタイヤを橋げたに乗り上げながら、こまかにハンドルを切ってはちょっと動かし、を繰り返し、なんとか窮地を脱することができた。地獄でほとけって、あるんだなあ日ごろ罰当たりなことばかり言っておりますし多分これからも言うでしょうが、神様、今日だけはあなたを信じます。

八女北国武の鍼灸師元田先生。新年早々助けていただき、ありがとうございました。

2006年1月13日 (金)

乙骨太郎乙の精神世界 1

以下に写すのは、筆者が昨年十月に静岡県沼津市明治史料館で戴いてきた貴重な史料の一つである。

1.乙骨太郎乙八十賀宴聯詩

太郎乙は晩年、旧幕臣風流の士と「昔社」という仲間を作り漢詩を楽しんだ。大正十年辛酉五月、牛込赤城神社のほとり、讀我書楼で太郎乙八十の賀を昔社同人相寄って祝い、席上聯句を寄せ書きした。(想像していた倍の幅の軸である。上下二段に全部で十三の句が寄せ書きされている。余白には同人による松の絵。かっこ内は史料館による注記。)

 漢詩の型「柏梁体(はくりょうたい)」、韻「庚」 

    訓み下し:松本杏花(「葛飾吟社」所属)

             

 松間開宴酒盈觥      華陽資業書(觥=牛の角製杯)

 松間に宴を開けば酒は觥(さかづき)に盈(み)ち

 拂々薫風和気生      建菴

 拂々(ふつふつ)たる薫風は和気を生ず

 當階紅薬映新晴      天葩(紅薬=紅芍薬)

 階(きざはし)に當(あた)る紅薬は新晴(しんせい)に映じ 

 繞簷雛燕多喜声      米峰(繞簷=軒ヲ巡ル)

 簷(のき)を繞(めぐ)る雛燕(すうえん)は喜声(きせい)多し

 赤城霞彩一抹横      聴泉(赤城=赤城神社、牛込)

 赤城は霞み、彩一抹(いろいちまつ)に横たはり

 眼前咫尺現蓬瀛      吹城(蓬瀛=蓬莱山、瀛洲)

 眼前の咫尺(しせき)に蓬瀛(ほうえい)を現す

 白髪黄袍仙骨清      香塘

 白髪の黄抱(おうほう)は仙骨清く

 絶代風流昔社盟      菊軒(絶代=比類ナキ)

 絶代の風流は昔社(せきしゃ)の盟 

 二世能博儒雅名      米雨

 二世能(よ)く儒雅(じゅが)の名を博し

 風月百年湖海情      長庚

 風月百年湖海(こかい)の情

 酣然高枕夢意平      淞雨

 酣然(かんぜん)として枕を高くし夢意(むい)平らかなり 

 行杯不用繊手擎      脊齋(繊手=女ノ手、擎=捧ル)

 杯(はい)を行(や)るに繊手(せんしゅ)の擎(けい)を用いず

 君家依舊慶福并      春石(君家=徳川家)

 君家は舊(もと)により慶福(けいふく)并(あわ)せたり

大正辛酉五月二十四日寿   

華陽乙骨先生八十賀聯句  岡崎壮 識(シルス)

補足:(乙骨家史料を簡略にまとめたもの)

乙骨太郎乙(天保十三年生大正十一年没享年八十一)は、蘭、英学者。父・乙骨耐軒は高名な儒学者であった。太郎乙は通称。名を盈(みつる)といい、華陽と号するのは沼津在住時代に花山の南に居住していたからという。耐軒の長男として江戸に生まれ、幼くして昌平黌に入り同校学試に甲科合格。(弟・絅二は上田家の養子となりその子が上田敏である。)太郎乙、長ずるに及んで自ら深く期するところあり、蘭学を学び、箕作麟祥(みつくりりんしょう)について英学を修める。万延元年藩の下級書記に始まり、元治元年には開成所教授手伝いから教授へ。慶応三年には外国奉行調役になる。

明治維新に際しては、恭順派ながら初めは強硬論を持し、あいともに徳川家のために薩長諸藩と戦うべしと主張したこともあったが、慶喜公に従い、彰義隊の鎮撫説得に努めた。家逹公駿府移封に伴って沼津へ来り、当地に創設された兵学校の二等教授となり英語を担当する。このとき二十七歳、(澤鑑之丞「海軍七十年史談」の伝える「君が代」を国歌にと進言する挿話はこのころのものということになる。姫野注)明治三年閏十月には一等教授になる。

明治四年兵学校が兵部省に移管すると一旦静岡学問所教授に転じた。そして、明治五年、大蔵省翻訳局は英語、経済学を教える学校を日本橋浜町に設置、太郎乙の親友で著名な英学者の尺振八を校長とする。同時に太郎乙も東京に移り、この学校の教授となる。当時の政府は新知識に乏しく、優遇されたことはいうまでもない。この学校には沼津兵学校出身者が多かった。明治十一年海軍省御用係りとなり、二十三年まで出仕。氏の真面目は蘭学の創唱者たるにあり、幕末より明治初期にかけての文化に貢献した。

俗称をめぐる挿話:

沼津在住時代、友と雷山へ散策す。すると山にて足踏み滑らし、谷へ転げ落ちたとき、口ずさんだ狂歌一首。

   ゴロゴロと雷山の麓まで落こつたらうオツトあぶない(乙骨太郎乙)

※上記補足は史料館資料からの引用(一部差し障りない程度に略)ですが、書き写していていくつか疑問をもちました。一つ目はもちろん、没年の確認です。資料には十一年とあり(二種のパンフにそうあった)、しかし、「マリオットの盲点」に書いたように愛媛の歌人片上雅仁先生指摘の吉川弘文館維新人名辞典記載の大正十年とするのが正しいのか。これは要確認です。(遺族のかたに確認。大正十一年が正しいそうです。)

いまひとつは、乙骨太郎乙の真面目は蘭学の創唱者たるにあり・・これは違うと思う。彼が英語を学ぶ前に蘭学を学んだのは確かなようだが、先生として教えたのは英語だけだからです。ともかく、私が思う太郎乙の真面目は、国歌君が代の発見だと思います。

2006年1月12日 (木)

わがくには

わがくには

わがくには

わがくには

飛形山 青木繁歌碑

しぼり柱

しぼり柱が具体的にはどんなものかを知りません。しかし、すぐ連想したのは八女の旧木下邸「堺屋」の黒柿の床柱でした。それは黒くて見事に捩れています。神様が涙をしぼったようにです。あのような床柱は見たことがありません。(たぶん目の玉が飛び出るくらいに高いのでしょう。)堺屋は地味ですが、細部に懸ける左官の情熱を感じます。一度ならず二度(最後は八女ぼんぼりまつりでの連句会でした)前田先生も貞永さんもここに見え、みんなで連句を巻いたことがありました。そのときには知りもしなかった。翌年には貞永さんが亡くなることも、そこを手がけた左官が父方の祖父だったことも。

わたしの父は養子でした。ですからわたしは父方の祖父についてはあまり知りません。ただ、堺屋で連句会をしているとき、父の里の家に雰囲気が似ていて落ち着くなあと思った。去年、父と堺屋の話をしたとき、「あちゃー。そこなら自分も壁塗りの手伝いに行ったこつのある。おやじが請け負うとったけん」というではありませんか。自分の親のことすらまだ良く知らないことがあったことに驚きました。

きょうは、父の義兄である伯父の命日です。昭和18年の今日、餓島という別名をもつガダルカナルで戦死しました。享年26歳。父より、はるかに優秀な人だったそうです。

※参考「黒柿」・・・http://www.okaya.ne.jp/teikeikoumoku/firstkurogakikurikeyaki/kurogaki.htm

2006年1月11日 (水)

死ぬなと泣きし

 初夢は死ぬなと泣きしところまで    天魚                                                    

眞鍋呉夫先生から年賀状をいただいた。ただ一句、この句が鮮やかな手跡でしたためられていた。正月から連句の同志だった故貞永まことのことを痛いようなきもちで思い出していたから、一瞬胸を衝かれた。

この句を発句に前田圭衛子先生が脇をつけられて、連衆で恋の歌仙を巻いた。脇は、

  しぼり柱に揺るる餅花         圭衛子

ほんとうに貞永さんはこの歌仙を巻いてしばらくして旅立ってしまわれたのだが、前田圭衛子宗匠のおそろしいまでの勘を歌仙を巻くあいだ中びんびん受け取り、連句という芸の行間に棲む魔物の正体が宗匠と重なってみえた。

亜の会のみんなが貞永まことを愛した。その律儀さと潔癖さと団塊の世代特有の理屈っぽさと正義感の強さを。酒に溺れる弱さをも愛した。いい人はなぜあんなに早く逝ってしまうのか。最後の最後まで連句に付き合ってくださった。今もよれよれになったファクスの付句を大事に持っている。いつかまたみんなで、あえるだろうか。

2006年1月10日 (火)

一句の現場

正月、小さな俳句連句誌「摩天楼」(千葉・星野石雀主宰)に隔月連載させていただいてる随想「影ふみあそび」を書いていたところ、山頭火が出てきた。

   うしろ姿のしぐれてゆくか   山頭火

句碑は八女福島の公園内にあり、建立のいきさつもほぼ存じ上げているものの、なぜか句の持つ風土性というものがあって、思い込みの強い人間はそうやすやすと思い込みから抜け出ることが出来ない。わたしの想う句の現場は筑紫野の山の中である。菅原道真公が眠る筑紫野、安西均が生まれ育った筑紫野、大伴家持が少年時代を送った筑紫野。はろばろとした国のまほろば、の修辞が最も似合う処である。その山中を車でゆくとき、なぜか知らぬが必ず雨が降るのであった。雪が降るのであった。時雨れてくるのであった。ほかのところは嘘のように晴れているのに、そこにさしかかるとそこだけ天気が悪いのだ。こんなことってあるだろうか、といつもおもっていた。そうしたら、星野石雀師の随想「尾を噛む蛇」に、関が原を通るといつも天気が悪かった、と書かれている。それを読んでなぜか嬉しくなってきた。嬉しがるようなことではないのに、共鳴してる自分がいた。

2006年1月 9日 (月)

笹と羊歯

暮れに裏の笹を庭師のかたが貰いに来られた。正月用の花にするとのこと。そういえば、小さな仏さま用の花立には、よく笹や松や梅の小枝を括って小さな束にしたものを花屋で売ってる。買ったことはあっても作ったことはなかったし、家にあることも気づかなかった。

ひょっとして、笹も新年の季語に入ってないだろうかと歳時記を繰ってみる。が、なかった。そのかわり、羊歯が出てきた。シダは裏白といって必ずユズリハとともに暮れに購入するものの一つである。鏡餅のしたに敷く。シダの文字の強い印象は詩的だ。春の季語「ぎしぎし」も羊蹄と書くし、羊はそんなに古く馴染みのある動物だったんだろうかといぶかしむ。漢字は中国大陸から来たのであるから、当然なのかもしれない。私のように馬の肉もましてや羊の肉など一度も食べたことがない者にとっては浮世離れしてみえるが、羊歯という字の持つ人を拒むような太古の雰囲気には犯しがたいものがある。

ところで、息子の勤めているコンビニで注文した正月用の切花なのだが、意外と良かった。宅急便で長い紙箱に梱包されて届いた。送料で代金二千円の半分はとんだと思われるものの、小ぶりの花立にいけるのにちょうどいい花が仕上がった。

山形の桜(と宣伝してた)はまだ蕾のままだ。さくら伐るばか梅伐らぬばか、というけど。

隈笹

隈笹

鬼門に自生しているクマ笹。左は榊、右もみじ。

SOCOVET

SOCOVET

正月に娘がくれた仏軍の古着(ちょっと日本通運ぽいけどかっこいい)mサイズ

2006年1月 8日 (日)

成人式

長男の成人式である。例年通りとても寒い。

大学入学時のスーツ(まだ一度しか着ておらず)を着て自転車で出かけたが、ネクタイが結べず、何度もネットで結び方を見てやっていた。しかし、どうみても裏結びになっている。口を出すと怒る、手を出すともっと悪い。まことにへんだとは思ったが、まあそれで別にどうということもあるまいと無視することにした。男は時間も金もかからず、楽である。

朝早くから、母が祝いの赤飯を蒸してくれた。大粒の小豆は父母が畑で作ったものだ。

「うちは成人式に出られんじゃったもん。忠見の家に奉公に行かされとったけん。」と母がいえば、父は「おりゃ背広着て行ったばい。たしか三河小学校じゃった。はずかしかったとば忘れんのう。昨日のごたる気のする。」と応える。昭和四年、五年生まれであるから、成人式は昭和二十四年ぐらいである。敗戦直後でも成人式はあったのか。

自分の成人式をしぶしぶ思い出す。昭和四十九年だったか。寒かったことと、着付けの髪が気に入らず、自分でやり直したことだけはっきり覚えている。当時は親元を離れて小倉に下宿していた。まだ元気だった祖母が喜んでたくさんお祝いしてくれた事も懐かしい。

2006年1月 7日 (土)

おめでとう!

俳句仲間の息子さんでいつも児童俳句を寄せてくれてる角賢典くんが、ペットスケッチコンクールで福岡県知事特別賞を受賞しました。それはそれはすばらしいです!ぜひ、ご覧下さい。http://www.fukuoka-douai.jp/をひらいて、お知らせのとこを押してね。

考えたら、とてもふしぎな縁です。と申しますのも、よしくんはうちのすぐ前に住んでるのですよね。うちの末子が福岡から越してきたとき、最初に友達になってくれた一つ年下のおさななじみです。まだほかにもたくさん偶然が重なっているのですが、それは省略いたします。とにかく、おめでとう!!(樹八女句会:姫野記す)

                       

黄人われ

  雪の日を黄人われのほほえみおり    金子兜太

2006年現代俳書カレンダー巻頭の一句です。「黄人」はおうじんじゃなく、コウジンと読みたいです。ひびきがそのほうが厳しくてきれいだからですが、正解は知りません。われ、ほほえみ、おり、とつづくことを思えば、やわらかなおうじんなのかもしれない。でもなんとなく金子兜太のイメージは荒神に通じるから、わたしはコウジンと読みたいですね。

きのう、北島三郎の「風雪ながれ旅」を書いてたら、なんとなく三橋美智也が出てきて、「斉太郎節」(宮城民謡の大漁唄い込み)に一時はまったことを思い出しました。それは母が昔民謡を習っていて、ドーナツ盤のレコードがあったからです。で、あの曲はたしかビートルズのイエローサブマリンに影響を与えたんでしたよね?

三つの色

  初風の地平に探す一頭の馬      梅崎流青

  美しい本で日ざしを遮って        竹井紫乙

  ひと言もしゃべらず終わるおままごと  泉 紅実

色という字は男女交合の象形文字だそうです。へええ、と思う。「マリオットの盲点」と「NO MARK」の、assamさんと倉本朝世さんと矢島玖美子さんからいただいた色をちょっとメモします。上から西日本読者文芸欄の岸本吟一選の新春詠、あとの二句は矢島選の孫引きです。たまたま色の名前が入った雅号が三つ並びました。三つともとても印象的な句で、どうしても書き残しておきたくなったのです。流青さんの句は一読すぐ坂本繁二郎の馬の絵が浮かびました。紫乙さんのは、批評するのがむづかしいんですが、ただ意味なく印象に残るんです。映画の一シーンみたいに。

2006年1月 6日 (金)

風雪ながれ旅

紅白歌合戦がちょっとしか見られなかった。それも、さぶちゃんのとこだけ。やたらめったら紙ふぶきが舞う中、つらそうに歌っていた。名曲だと思う。聴いててイメージが映像的にあふれ出てくるもんね。津軽三味線って、なんて切ないんだろうか。

数年前この曲にはまって一週間ぐらい毎日なんども聴いてたことがありました。あれは、なんなんだろうねえ。あと、似たようなかんじで三橋美智也が好きだったころがある。松島の、と歌いだす歌(民謡かいな)とか、わらにまみれてよの歌をレコードで何度も聴いてたら、夫が来て「うるさい」とぶちっときられた。しみじみおもんぱかりまするに、夫と私の関係は、町のネズミと田舎のネズミみたいな関係でありますねえ。

動画)

風雪流れ旅:http://jp.youtube.com/watch?v=yV5ZKbryAPQ

これ、松山千春(まだ、ふさのころの)、とってもうまいんでびっくり。さぶちゃんも青くなるうまさ。

中学受験

昨夜は底冷えのする夜だった。元旦から少し寒が緩んでいたので、またキュッと気が引き締まる。朝、窓を開けると瓦の端にうすく雪が刷いてあった。ああ今日から中学受験が始まるなあと思い、ことし受験する知人の息子さんのやさしい笑顔が浮かんだ。

次男は去年うけた。去年も同じ市内の学校が真っ先にあった。それからの数校の受験の日々を、なんともいえない気持ちで思い出す。子が初めてなら親も初めてだった。一年半も久留米の塾に送迎し、迎えた受験。会場で会うどの子もどの親もどの先生がたも必死だった。だが、それが、実に気持ちよかった。

結局、量だという気がする。

2006年1月 3日 (火)

もやしもん

もやしもん

講談社 石川雅之

発酵うんちくまんが。

2006年1月 1日 (日)

とびかたの志

新年のご挨拶を申し上げます。みなさまいかがおすごしですか。大晦日、紅白をごらんになったでしょうか。我が家はここ数年、三つに分かれてしまいます。七十代の父母は紅白、五十代の夫は男のろまんPRIDE、のほほん学生と中坊は隠居部屋に籠ってゲームとまあこんなかんじです。おせち料理を作りたくないわたしは、「いんにゃ、作らやん」と言い張る母と例年喧嘩をします。作っても、食べるのは旧石器時代の住民である父母とその子のわたしだけで、あとはみいんな見向きもしないからです。くろまめ、雑煮、酢人参と酢ごぼう、かずのこ、きんとん、さしみ、がめ煮。ほんとにいやになります。たくさん作っておでんのように何日もそれを食べ、捨てることを思うと。そこで、ことしは母がなんと言おうと、我を通しました。最低限のものしか作らなかった。(じぶんの母だからいえますが、彼女は鬼です。)

八女市には山がなく、しかし八女富士が見えます。標高450mの飛形山です。家からも頭がほんのちょっと見えます。(写真)低いけどかたちはきれいな富士山のかたちです。

「血気には老少有りて 志気には老少無し」八女公園にある小島直記碑のことばです。「無冠の男」上巻のなかの尾崎行雄の遺した言葉にも通ずるものがあります。

         平成18年元旦               tokowotome

飛形山

飛形山

飛形山

いらかのむこうの八女富士、家の裏を流れる山の井用水

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