俳句において恋はどのように描かれてきたかといつても、恋にかかはる句を精査したことがあるわけではないから、つまるところ今までに読んで記憶してゐる作品の中から取り上げるほかないであらう。その記憶の中にも短歌ほどには恋に関する作品が多いわけではないやうな気がする。なぜ恋の句は多くないといふ印象をもつてしまふのか?
日本の定型詩のなかでも俳句は謂はば最も新しい形式である。その遠き母体となつた和歌においては恋は重要な主題の一つであつた。相聞歌は消息を知らせ合ふことを基本としながら、多くは互ひに相手への募る思ひをこめて贈る歌であつた。俳句の直接的な母体となつた連句においては、花や月のやうに座を定められてゐるものがあり、それは花や月の最も美しい季節が重要視されてゐるからであるが、同時に座は定められてゐないものの必ず恋にかかはる句も必要とされてゐて、重要視されてゐるのは同様である。ただ、連句においては表六句に恋の句はこないはずであるから、発句にないのは当然で、ここから独立してきた俳句において恋を詠むのは、ひよつとすると少し時間が必要だつたかもしれないなどと思つてしまふのである。(※1)あるいは、形式の最短化が複雑な恋心を表現するのには適さないために避けられたのだらうか?あるいは、じつはさがせば恋の句は結構あるのに、私の目にとまつてゐないだけなのか?しかし、概ね季題を主とする俳句の世界において、恋が主題の句が多くないと感じてしまふといふのは、思ひ込みにしてもあながち不思議なことではあるまいと思ふのだ。
個人的には、俳句は短歌のやうに恋をうまく詠むのは難しい形式だと思ふ。人を恋ふといふ思ひを十分に表すためにはやはり言葉数が制限されてゐてはもどかしい。誤解を恐れず言へば、俳句は謂はば事柄の典型を表現することにその長があるから感情や思念の深さを述べるには適さない形式である。例えば、
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで
人恋はば人あやむるこころ 塚本邦雄
(ツカの字はほんとはかうぢやないが、でないので)
といふやうな短歌に接すると、どうもこの内容を俳句で表現するには難しいと感じてしまふ。この短歌は具体的に誰それが恋しいと述べてゐるわけではないが、「洗ふ」といふ行為から「恋ふ」という行為に到る、その奥に潜むぎりぎりの情念をつかみだしてゐる。無論、それぞれの形式に主題を処理する方法はあるはずであるあから、形式の方法を上手に用ゐればよいことではあるのだらう。要は「恋」に関してさういふ俳句作品が書かれてゐるかといふことである。
中村草田男の句集『火の島』における妻恋の作品は有名だが、これは結婚が作句の動機になつてゐると思はれる。彼の妻恋の作品の多くは結婚から五年ほどの間に集中してゐる。この間、日野草城の「ミヤコホテル十句」に対する批判があるが、これは奇しくも草田男の結婚の年と重なる。それからわづか二年後に自ら
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る
炎天の空へ吾妻の女体恋ふ
妻恋し炎天の岩石もて撃ち
妻のみ恋し紅き蟹などを嘆かめや
などの作品を書いてゐるのだから恐れ入る。妻を慕ふといふのも恋のうちであらうから、まあ、それはそれでよいとして、ここに書かれた恋情の一端は、その後、寺山修司の
林檎の木ゆさぶりやまず逢ひたきとき
などにも展開されて、俳句作品として決して書くことができない内容ではなくなつてゆく。寺山の作品は短歌における、
青嵐はげしく吹きて君を待つ
木原に花の処刑はやまず 春日井 建
などにも通ずるものがあらう。しかし、ここに挙げた草田男の作品では形式の方法がうまく生かされてゐるかといふと、私にはどうもさうは思へないところがある。例へば、「妻恋し炎天の岩石もて撃ち」と「林檎の木ゆさぶりやまず逢ひたきとき」を比べてみればよい。シチュエーションの違ひはあるが、草田男の句はほとんど思ひが直接的に表出されてゐて、屈折を感じない。むしろ若書きとはいひながら寺山の作品に青年(少年といふべきか)の心の鬱屈を感じる。春日井の作品でも、やはり思ひを寄せる相手を待ちかねる青年の鬱屈が「花の処刑」を行はせるのである。この春日井建の短歌に拮抗して遜色ないのは寺山の作品の方である。屈折を感じさせない表現になつては俳句は短歌に及ばない。思ひを述べるのはやはり短歌に長があるのである。草田男は性の覚醒を主題にしたかつたのかもしれない。しかし例へば、性といふことに関しても、
これやこの一期のいのち炎立ち
せよと迫りし吾妹よ吾妹 吉野 秀雄
といふやうな切迫した思ひの表現に草田男の句は届いてゐない。病妻の今際の願ひ、それは限りある人間の生命の悲しさ、情念の切なさでもある。かういふ短歌に伍するために俳句といふ形式の方法をどう発揮させるかだらう。残念ながら草田男の句は平板な感じを拭へない。ここでは草田男は逆に形式の制約を脱してゐないやうに思はれる。むしろ草田男の作品として挙げるべきは、
妻二タ夜あらず二タ夜の天の川
雪女郎おそろし父の恋恐ろし
などの作品である。「天の川」の作品も妻恋の句として扱つてよいものだらう。慣れ親しんだ妻が二晩の留守。無聊を託つといへばさうなのだが、その二夜をしみじみと天の川を見上げて過ごす。ゐるべき者の不在が静かに確実に自分を浸す。リフレーンと句跨りでリズムの良さもある。妻恋の句の真骨頂であらう。「雪女郎」の句にも、父の恋を肯へない子としての心情が雪女郎の恐ろしさとダブルイメージで表出されてゐて面白い。一種の屈折があると考へてよいだらう。
俳句形式の方法について意識的であつた高柳重信は多行形式以前の作品を一旦葬るつもりであつたらしいが、後に『前略十年』として句集にまとめた。この中に恋に関する作品が幾つかある。いや、といふより、まことに迂闊であつたが、『前略十年』はほとんど恋の句集と言つてもよいやうな編集になつてゐる。高柳重信は短歌と俳句の相違を猟犬のセッターとポインターで説明してみせた。短歌は罠を仕掛けて獲物を追ひ込む余裕があるが、俳句はポイントを指し示すことしかできぬといふのである。『前略十年』にその重要なポイントを一衝きにしてゐる恋の句がある。
きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり
である。これは失恋または告げ得ぬ恋の終はりを意味してゐよう。俳句は心の屈折を何重にも描いてみせるわけにはいかない。最小の次数で描ける屈折はせいぜい一度であらう。それを一フレーズに託す。ここでは「訃に似たり」である。勿論、一語を輝かすために周辺の語またはフレーズがそれを支へる。思ひを寄せる女性が嫁ぐ。男にとつてそれは彼女の死の知らせであるかのやうに思はれるのだ。手の届かぬ人となつてしまふことの切なさ。「訃に似たり」はそのやうな男の思ひ。その一種無念な心理を衝いてゐるのである。『前略十年』にある恋に関する句はざつと拾ひ出しても二十を下らぬ数である。少年期から青年期の時期の作品だが、数としては多いやうに思はれる。前掲の作品に先行して
きみ嫁けり此の春金色夜叉読みぬ
といふやうな句もあつて類想を感じるのだが、報はれぬ恋、または恋人との別れであらうと推測できる句はこれ以外にもある。いくつかの作品を挙げれば、
凩に恋人古りぬ妻とならず
つねに遠景 その満月と恋人は
走り去る不意の別れの煙草の火
腕ぬけて振りむきざまの嗚咽かな
といふやうな作品だが、私にはこれらの句を経て初めて「きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり」の作品の成立があるやうに感じられる。『前略十年』における恋の作品は、このやうに報はれぬ恋や別れが主調音として展開されるが、就中「きみ嫁けり」はそれらの作品の中で最も優れてゐるものだ。最短詩型の形式の方法が最もよい形で発揮されてゐる。これ以外の、『前略十年』の中の恋にかかはる作品の多くは、若書きといふことを割り引かねばならぬが、事柄または心理の典型を言ひとめてゐるとは言ひ難いやうに思はれる。
恋愛を主題とするのは思ひを述べるに不向きな俳句形式では難しいとやはり私は思ふのだが、人間の心理の襞に表現がざつくりと切り込むことができれば、無論成功はもたらされよう。「雪女郎おそろし父の恋恐ろし」も「きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり」も不安や喪失感を鋭く抉り、人の心理の一つの典型をつかみ出して見せてゐるのは確かなことであるから。
(俳句誌『円錐』53号 2012 summer より引用 )
▽かささぎの一人ごと
※の部分、どうなんでしょう。
杉浦清志先生に尋ねてみましょうか。
東明雅著『芭蕉の恋句』(岩波)に恋句の歴史が書かれていたように記憶します(九州俳句誌暦論の連載中、十年ほど前に引用した)が、連句での恋の扱いは、恋の座がちゃんとあるんですよね。たしかに、横山先生が書かれているように、どこと定位置があるわけではありません。おもてでは出さない、裏に回ってからならどこで出してもよい。一句出たら二句以上五句までは出してよいし、三句~五句あければ何回出してもよい。恋のない歌仙ははんぱものとされる。人情句の花というべき恋を詠まずして何の連句か。というかんじだろうと思います。
オモテ六句の禁忌は印象けざやかなものを避けるというのが最も肝要なことなので、(序にあたるから)、けれども、発句と脇は番外地に立ちます。いつもいつも場所や客人に挨拶する句ばかりが発句にされるものでもなく、恋や無常、いろんな素材で詠まれた句が発句に選定されることも多い。ですから、脇は、いくらおもてに恋や無常がだめとは言っても、それに従いますし、従わねばなりません。
ふしぎなことに、あまりそういうことまで書いてある指南書には出合いません。
れぎおんの名編集長で名捌と言われる前田圭衛子師と、いっとき開けても暮れても恋づくしの歌仙を巻いていた時期があります。一巻全句が恋。こういうのは賦物(ふしもの)と呼ばれる特殊な形式です。こんどそれをやってみましょうか。
きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり 高柳重信
この一句。とっても実感が伝わりますね。
昔、この句とおなじ状況にある人を遠くから見ていたことがあります。
ともだちの結婚式で、他ならぬその人は上司として祝辞を贈った。
どんなに寂しかっただろうと私は内心ひどく同情しました。ちゃんと家庭はもっていても、にんげんは欲深い生き物だからです。好きなものに囲まれていたいものね。
結婚式出席は、まるで最愛の人の葬儀に参列した感じだっただろうなとおもいます。
まあ、あれです。人の恋をはたから見ているのは、切ない。
花百句を書かれた俳人から頂いた句集から一句ひいて終わります。
梅もどき見ぬことにして人の恋 吉田渭城
(吉田渭城句集『二○○二年』より引用)
※吉田渭城様。お句集ありがとうございました。
お礼状さえまだ出しておりませぬ。失礼しております。
天籟通信の方々を通じて無所属のかささぎに一誌お届けくださったこと、肝に銘じます。
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